2017/4/30 改訂 表紙へ 目次へ |
山東京山著 歌川豊国(三世)画 錦橋堂版 |
「二編下巻へ」 |
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(1) (表紙) 女房形気 二編上下 豊国画 |
解説 従来五丁を一巻とした草双紙の数巻を合せて一冊としたもの。それを一部一編として、長いものは 数十編に及ぶ。絵を主とした読物で、素材・表現ともに実録・読本・浄瑠璃・歌舞伎などの影響が 著しい。(広辞苑) 教草 女房形気 合巻。弘化三年(1846)から慶応四年(1868)刊。中本25編100巻50冊。 山東京山作、二一編以降は鶴亭秀賀作。二代(実は三代)豊国画、一二編以降は二代国貞画。 錦橋堂山田屋庄次郎板。天保改革が収まった後に教訓的標題をもって刊行が開始された一群の作品 のひとつで、京山の代表作。八文字屋本の気質物に倣った作風で、町家の女房たちを扱った全部で 五話(最後の一話は秀賀作)からなる〈続きもの〉である。 第一話は清涼井蘇来作の読本『当世操車』(明和三年)巻三「浮島頼母妻女の事」を典拠としており、 かなり密着した翻案が行われているという。各編の序などで和漢の故事を引きつつ、婦女子に対す る道徳教訓を説くことが多い。翻刻は明治期単行本のほか、続帝国文庫『続気質物全集』、有朋堂 文庫『娘節用・教草女房形気』に収まる。 【参考資料】内田保広「「不才」の作家―山東京山試論」(『近世文学論叢』、明治書院、平4) 日本古典文学大事典 高木元 文化初年(1804年ごろ)から兄京伝に倣って戯作界に入り,合巻の世界で活躍。百六十余種の作品を出版して いる。「復讐(かたきうち)妹背山物語」「教草女房形気」、著「歴世女装考」など。 江戸後期浮世絵の一派である歌川派は豊春を祖とし特にその弟子初代豊国に至って好評を博し、以後豊 広・国貞・国芳・広重・月岡芳年・豊原国周ら多くの有名絵師を輩出、浮世絵界に君臨した。 初代歌川豊国(1769~1825)は号は一陽斎。役者の舞台姿が得意。多くの弟子を育て、歌川派の隆盛に 貢献した。二代.は初名、豊重。号は一竜斎・後素亭。初代の養子。(1802~1835)。 三世歌川豊国こと歌川国貞(1786~1865)。 国貞(くにさだ)は面長猪首型の美人画が特徴。存命中と 没後で評価が分かれる。豊国襲名後は工房を安定させ大量の作品を出版、作品の数は浮世絵師の 中で最も多い。その作品数は1万点以上に及ぶと言われる。 底本(個人所有)は頁の所々傷み破れがあり、判読が不能な箇所があります。欠落部分については 国立国会図書館近代デジタルライブラリーで公開されている明治18年~19年刊の「教草女房形気」 を参考にしました。翻刻に当たっては変体仮名は現行活字体に、片仮名は平仮名に改め、読み易く するため適宜漢字に変換しました。人名に関しては「おりつ」「→「お律」「こと次郎」→「琴4 二郎」「おふで」→「お筆」に。表記が不統一な「次郎吉」は「二郎吉」と表記しました。 また文中の漢字については一部平仮名表記にした箇所があります。 句読点、濁点、「」を適宜補いました。なお翻刻の間違いやお気づきのことがありましたらお知らせ 下さい。10丁 17.7×11.7㎝ |
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(2) (見開き) 教艸 女房形気 錦橋堂版 二編 上巻 京山 作 豊国 画 弘化丁未新梓 (一丁オモテ)) さてその日に到りて |
*弘化丁未ひのとひつじは弘化四年(1847年) *花山天皇 第六五代の天皇。名は師貞(もろさだ)。冷泉天皇の 第一皇子。中宮の死を悲しみ、藤原兼家・道兼にあざむかれて 花山寺に入り出家。拾遺和歌集はその撰という。 (在位 984~986)(968~1008) |
*多田満仲 源満仲(みなもと‐の‐みつなか)のこと。平安中期の武将。 経基の長子。鎮守府将軍。武略に富み、摂津多田に住して多田氏を称し、 家子郎党を養い、清和源氏の基礎を固めた。(~997) *藤原惟成ふじわらのこれしげ/これなり)(953~989)平安中期の官人。 勅撰歌人として『拾遺和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に15首 が入首している。家集として『惟成弁集』がある。 |
![]() (二丁オモテ) 妻の髪を見れば けるに、妻云ふ様 「わらわが黒髪は大臣殿の と云ひつゝ▼
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(3) (一丁ウラ) ▼用意調ひ兼ねしに 「いかにもして調じ参らすべし」 とて夫を さて惟成は友達と共に遊びながらも飯のこと覚束無くて思ひ煩ひしに、やがて仕丁、唐櫃を荷ひ来り、 「妻より」 と云ひければ、 |
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(4) (二丁ウラ) ▼顔に袖を当てければ惟成も涙に暮れけるとぞ。 ●此 今此「女房形気」の二編の筆を執らんとしてふと思ひ出したる故、六百年前の女房の鏡を此「女房形気」に照らして合せ鏡と為すになん。 かの明智光秀が妻、夫のために髪を売りたりと云ふ話は 唐土
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(三丁オモテ) 母君梅月院と申すは賀茂川の下屋敷に住み給ふ。その付人 元は彼の梅月院殿の側に仕えて松尾と云ひしに、姉の死に後へのちの妻になりたる なり。 ●さて又梅月院殿の料理人峯松琴二郎、日頃浪右衛門方へ親しく立入りしに、浪右 衛門は五十に近く、妻のお律は後添ひゆえ歳も釣合わぬ二十三四なり。 さて毎日立入る琴二郎は廿五六のやもめ男、男振りも良ければ、よそ目にも蠅取 黐に玉虫もくっつきさうなれど、お律は貞節、琴二郎は律義ゆえ人目をつゝむ涙 は露ばかりもなかりけるに、ふとして間違ひを浪右衛門に見咎められ不義の言訳 すべき証拠もなく、二人駆落ちなしけるが、途にて春日の宮に入り、 をなし、一度は不義の悪名を洗ひ清めんと▼ |
*兼顕卿 村上源氏出身の刑部卿源 顕兼(源顕房5代目の子孫、1160-1215) の誤記か。 *古事談 説話集。六巻。源顕兼編。 1212~1215年(建暦二~建保三)に成る。 王道后宮・臣節・僧行・勇士・神社 仏寺・亭宅諸道の六部に分け、平安 中期までの史実・有職故実・伝説を 記す。 |
![]() (四丁オモテ) その日暮らしの鳴く音寂しく朝夕を送りけるに、お糸は花の盛りの美しく も為したれば物事賤しからず。 殊更利発の生まれなれば、武士町人の程々にあしらひて目先が利くゆえ、お糸お糸とて 他のものよりは商ひも多かりけり。 さて又、琴二郎は鯉の包丁も出来る手なればこゝらあたりの料理人ンが及ばざれば更 なり。 僅か半年ほどの内に移り替えの ●かくてその頃有馬の湯場へ菱川 |
(5) (三丁ウラ) ▼願ふ事ども、詳しくは初編に記したれば読みて知り給へかし。 ●さる程にお律、琴二郎は京を立退き、 ②持ち歩きて湯入りの人に売りなどして |
(額の歌)
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*真魚箸(まな‐ばし) 魚を料理する時に 用いる箸。 木製・鉄製など種々ある。生膾箸。 *移り替え 季節のころもがえ。更衣。 *菱川師宣(ひしかわ‐もろのぶ)江戸 前期の浮世絵師。俗称、吉兵衛。友竹 と号。安房の人。 万治・寛文の頃江戸に出て、肉筆画や 版画、 特に版本の挿絵を次々に制作し、浮世 絵の新領域を開拓した。(~1694) |
![]() (五丁オモテ) 悲しと云ふ心なり。此額お糸が懸けたりとは所の人も知らず。 珍しき額なるのみにみあらず。絵も名人の師宣筆にて生けるが如くなれば湯入り の人は更なり。 遠きあたりよりも聞き伝へて見に来る人多かりければ、薬師の 足繁く此額ゆゑに賑ひを増しければ、いよいよかく名高くなりつれど、お糸が とは知るものなかりけり。
に琴二郎とふたり蒲団を並べて寝る仲のへだてに心の関と▼ |
(6) (四丁ウラ) ▼お糸これに頼みて歌を書かせ額に作りて、有馬へ湯入りする人は必ず参詣する薬師の額堂へ、人知れずかの額を納めけり。 その額の絵は美しき女、手を合わせて拝む姿の前を合わしたる所へ錠をおろしたるさまを描きたるに、一首の歌をぞ書きける。 その歌に 「御仏の誓ひに立てし関の戸にとゞめあへぬは涙なりけり」 と書きて「 歌の心はこの薬師様へ願を懸け心の内に関を据えて男は入れまじと各々とも涙ばかりは心の関にも |
![]() (五丁ウラ続き) 身に覚えはなけれども不義の 去りし我々二人。ここにありて梅月院様のお供の人に見付けられなば如何なる憂き 目に遭はんも知れず。今宵此所を立退き暫く身を隠さんと思ふがおぬしは何んと思 やるぞ。」 お糸これを聞きて打ち驚き 「それは思ひ依らざる事なり。いかにも見咎められては悪しけれど 御持病もなくつひにお薬召し上がりたることもなければ此度の御湯治も御慰みの ためならん。 (六丁オモテ) さすれば長き御逗留もあるまじければお前は病気と偽り、私は兄の看病とて戸を 閉ざし、用あらば夜に出し、人に顔だに合はせずは見つかる事も有るまじ。 たとへ三日なりとも二人こゝを夜逃にしては再びここへは戻られぬじゃござんせ ぬか」 と云ふは 去りけり。 |
(7)(五丁ウラ) ▼筆太く書きたるを貼り付けおきて心を戒め身を慎むも、不義に非ずして不義の悪名を 世には男を持ちながら男をこしらへ我が子をさへ捨てゝ晦日男と駆落ちするもあり。 左様なる人で無しに較べて馬鹿律義と思はんが① ②お糸は人の人たる貞女の鏡なり。 これをこそ女房形気の手本と云はめ。 ●さて二郎吉ある日、宿へ帰りてお糸に云ひける様、 「今日雇はれの先にて噂を聞けば我々がご主人志賀の山様の御母君 わしは梅月院さまの料理人、 |
*其文字(「そなた」の「そ」に「もじ」 をつけた。女房詞) あなた。 |
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(8) (六丁ウラ)
元は雲の上人の御娘なりしゆえ歌はさら也。 詩をも作り左国史論の文は空に覚え給ひ。 道々しき事を好み給ふからに、宮仕への女中も自ずから歌も詠み四書の面をわきまへ知るもありけり。 ●さて此度の湯浴みもさる尼君なれば供人も軽ろくし給ひしが、御医者のほかに御家来の絵師を |
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(七丁オモテ) 一人連れ給ひしは、風雅を好み給ふゆえに、所々の景色を写させ道の記の挿絵に も、又は噺草にもとて、絵師を連れ給ひしなり。 ●有馬に着き給ふ日はかねて申付たる宿の主、一里ばかり出迎ひ案内申し、七ツ (午後四時頃)さがりに着き給ひし故、先ず幕の湯を めさせ、その明くる日は所珍しければここかしこ見ありき給ひしに、薬師の額に ①②懸けたるかの評判の額に目をとめ給ひ、暫し佇み眺め入り③ (七丁ウラ下続き) ④給ひしが、さて御帰りありてお供より下宿へ (七丁オモテ下) 「そちも最前見たる女絵の額、わらは思ふ旨あればここへ取寄せとくと見たく 思ふが取寄する事なるべきや」 と仰せに 「霊前の額取り降ろし候事如何あるべきや。ともかくも宿の主に尋ね申すべし」 「いかにもいかにもよく計らへ」 (主「あの評判の額、誰が) |
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(9) (七丁ウラ) ▼ と請合ひしがやゝありて毛氈に包みて持ち来たりければ、直ぐさま御覧に入れけるに、尼君喜び給ひてとくと見給ひ 「これ亘。今朝ほど此額を見しに歌の調べも整ひ筆の運びも厭からず、どこやら見知りたる手跡の様なれどわらはが年寄りの目には高き所の額なれば聢と見極め難き故、斯様に取り寄せてよくよく見るに、こりゃこれ覚えある手跡なり。女子どもとく見よ。覚えある筈じゃが」 と仰せに局を始めよくよく見ても思ひ寄らざりしに振袖のお小姓が 「此歌を書きましたは松尾では御座りませんか。私は |
(八丁オモテ) 松尾に手本を貰ひました故、筆の運びも覚えが御座ります」 尼君膝を打ち給ひ 「 は目通りにて召使いしがそちも知りたる通り。わらはがよろづの整い物を計らふ柵浪 右衛門が妻は松尾が姉なりしに (七丁ウラ 下) ②(後添いの願ひを許し)たるゆえ名も律と改め、歳の釣り合わぬ夫婦なれど、 律が貞節なる故妹背の仲も (八丁オモテ 下) 睦まじと聞き悦びしにわらはが料理人を勤め至る峯松琴二郎と不義をなし、 浪右衛門に見付けられ、刀の下を 律は左様なる ④非らざることは見所ありしが、思案の外に狂ひしにや。 側に仕ひし女。不義の |
![]() (九丁オモテ) たる事を申し聞かせ歌の心を尋ねみよ。 此額は召連れたる栄竹に写させて返し遣るべし」 と宣ひければ谷橋亘、お律を訪ねけれどもここへ来たりてはお糸を名を変えたれ ば訪ね当たらざりけり。 此時訪ね当たらば不義の悪名を のちの身の上は次を読みて知るべし。
有馬にて幕の湯といふは他の人を入れず① ②借切なりし。 |
(10) (八丁ウラ) ▼わらはも恥じ也と思ふ故、律がこと心に懸かりしに此額は律が筆に違ひなく、殊更『願主 さて歌の心と絵のさまとを以って推量するに、仏に誓いて男には再び妹背を許すまじとの誓願也。 もし律に会はゞ、わらはが此額を見て律が筆と見究め |
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(11) (九丁ウラ) ▼まして此尼君は藤屋を借切るなれば憚る人目もなく、女中たちの珍しき湯治場の遊山の気晴らし良きお供と悦びけるが、尼君は ●ここに又お糸・二郎吉は病と偽り戸を〆て引き籠もり居りけるに、そもそも屋敷を立ち退きし時、その夜、春日の社にて 然るに尼君ゆえの ○琴二郎 名をかえ二郎吉 |
(十丁オモテ) あらねば心の動く折もあるべけれど、人の人たる道に背くまじと思ふゆえ、 小屏風にて二人が寝床の隔てとなし、心の関と書きたるを となしけるは、ここに二人暮らしする始めよりの事なりけり。 ●さて昼も戸を〆て居たるは今日で七日。 その夜お糸と油買ひに出て戻り「 お前に窮屈させたも今日ぎりじゃぞへ」 「そりゃなぜか」 「 ○お律今はお糸 |
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(12) (十丁ウラ) ▼油屋で聞きました」 「なるほど 「もし 「そりゃ、わしも同じ事、お通り道は ②隠れ拝むべし」と、その
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