2020/3/3 改訂 目次へ 表紙へ |
絵本物見岡(えほん ものみがおか) 三卷二册 「中下巻」 関清長 画 江戸伊勢屋吉重郎 西村源六板 [初版天明五年(1785年)] 原データ 東北大学狩野文庫画像データベース 畫本物見岡 |
「絵本物見岡上巻へ」 |
(1) 江戸名所 絵本物見岡 中下 |
(2) 両国橋納涼 両国のはしハ百膳 鎗一本 たえすつかせよ 此 手杵兼勝 |
(歌意)大勢の人が納涼にやってくる両国橋は頑丈な作りだ。その橋の袂の心太屋は、武士が槍を突くように、心太の突き棒を突いて突いて突きまくる。日に百膳は売れるようだ。「儲かってるなあ」と群衆から野次が飛ぶ。 (挿絵)両国橋のたもと、ところてん屋の店主は心太突きで今日も料理をしている。菅笠の客は立食い。店は肩で担ぐ移動式店舗で手前の棚に売物のところてんと下に桶、もう片方の棚に器と醤油徳利と桶が置かれている。両国橋は納涼の人々で大賑わい。橋の下には猪牙舟を漕ぐ船頭。 *国会図書館近代デジタルライブラリー 日本風俗図絵 第12輯「絵本江戸爵(えどすずめ)」 の中にこれと同じ頁がある。この頁以外にも東北大狩野文庫のこの「絵本物見岡」中下巻の7枚(3・4・5・6・8・9・10-1)は近代デジタルライブラリーの絵本 江戸爵の頁と同一。 国立国会図書館のデジタル化資料 絵本物見岡 と 日本風俗図絵 第9 輯絵本物見岡 にはこの頁(2・3・4・5・6・8・9・10-1)は掲載されていない。推測であるが、絵本江戸爵の落丁頁(2-2・3・4・ 5・6・8・9・10-1各頁)が誤って絵本物見岡中下巻に混入されたものか。 絵本江戸爵は朱楽菅江作・喜多川歌麿画・蔦唐丸編(天明 6刊) |
*両国橋 隅田川に架かる橋で、東京都中央区東日本橋二丁目と墨田区両国一丁目とを連絡する。1661年(寛文一)完成。古来川開き花火の名所。 *橋・端・箸は同音異義。 鑓・ところてん・くは縁語。百膳と百全を掛ける。百全はまったく完全なこと。万全とも。 ○世の諺にも、朝より夕まで両国橋の上に、鎗の三筋たゆる事なしといへるは、常の事なんめり。 風来山人(平賀源内)『根南志具佐』(ねなしぐさ)(明和6年〈1769〉刊)より。武士の往来の多さを表す諺。 *ところてんはテングサを洗ってさらし、煮てかすを去った汁を型に流しこんで凝固させ、清水で冷した食品。心太突きで突き出し細条とし、芥子醤油・酢などをかけて食べる。寒天からもつくる。盛夏に食べると暑気をはらい、厳冬に用いれば寒気に耐えられると伝承され、四季を通じて好まれていた。 |
両国橋 浮世絵で見る江戸の橋 両国橋界隈 江戸の歴史 江戸最大の盛り場!両国 |
が
(3) 蚊遣り かこハれの人目 いふせき(鬱悒) 住居にハ よそよりはやき かやり(蚊遣)草かも 淺川和足 かこはれハかゆい所を かくれさと(隠れ里) むねに蚊遣の 下もえもせす 倉部行澄 |
*隠れ里 向島は、江戸の市街の中では、もっとも遅れて開けたところ。地勢的には、本所の北側に位置するが、人々はむしろ、隅田川を挟んで今戸との間を渡し舟で行き来していた。当時の江戸の人々にとっては、向島は隅田川の彼方にある、遠く離れた土地だという印象が強かった。文化文政以降、向島は墨東の隠れ里とされ、古くから粋な町として親しまれてきた。 *下燃え・下萌え *国会図書館近代デジタルライブラリー日本風俗図絵. 第12輯)「絵本江戸爵(えどすずめ)」の中にこれと同じ画と歌の頁がある。国立国会図書館のデジタル化資料 絵本物見岡には不載。 |
*囲われ(かこわれ) 囲い者。めかけ。 *蚊遣り 蚊を追い払うために、煙をくゆらし立てること。また、そのもの。かいぶし。 ○世の中をあくたにくゆる蚊遣火の 思ひむせびて過ぐすころかな (堀河百首 夏 488 源俊頼) (挿絵)囲われた女は縁台で夕涼み。 女中が縁側で蚊遣りを焚いている。 煙がももうと立ちこめる。 |
(4) 通り町の鮨屋 夜や冷し 人にやなれし 通り町 ゆき合の間にも 鮨やうるらん 白川与布祢 夕はてに おまんを ほめて 通り町 つめて おしあふ 見せの すし売 菊賀三昧 |
*おまん おまん鮨 阿万鮓 おまん鮨は、魚(鯖、鰯、鰺など)のつけ汁におからに含ませて押し味付けした鮨。 *国会図書館近代デジタルライブラリー日本風俗図絵. 第12輯)「絵本江戸爵(えどすずめ)」の中にこれと同じ画と歌の頁がある。 国立国会図書館のデジタル化資料 絵本物見岡には不載。 |
*通り町 日本橋通町(とおりちょう) 北の方は、筋違橋の内側、神田須田町より南へ、今川橋、日本橋、中橋、京橋、新橋を経て、金杉橋の辺りまでの総称で、町幅は十間余りある。現在の中央区日本橋1~3丁目。 (挿絵)右頁 押し鮨を売る屋台の店先。通り町を大勢の人々が行き交う。屋台の後ろには押し鮨の入った鮨箱を重ねて肩に担ぐ男。左頁は犬が取組み合ってケンカしているのを子供が棒や石を手に止めようとしている。 |
江戸時代、江戸で生まれた握り鮨 寿司は享保年間(1716~1735年)に四角の箱に、鮓めし に具を入れた大坂鮨が繁盛し、それが延享年間(1744~1748年)に江戸に伝わった。 寿司が大衆的になったのは、両国橋近辺に屋台売りの「寿司屋」出現してからである。宝暦年間(1751~1764年)に「おまん鮨」が日本橋に開業し、寿司が急速に普及した。 握り鮨が隆盛を極めるのは、文政年間(1818~1830年)に、華屋与兵衛が本所横網町で始めて以来である。ねたは、小鰭、芝海老、白魚などであった。 |
(5) 屋根船 屋根船を さすかし 棹の さみせんに うきたつ 波の花や ちりてん 鶴羽重 やね船の 簾(すだれ)をあけて 三味線の 川浪ひゝく 高調子かな 飲口波志留 |
(挿絵)屋根船、猪牙船、筏流しなどが行き交う江戸水運の賑わい。 *国会図書館近代デジタルライブラリー 日本風俗図絵. 第12輯)「絵本江戸爵(えどすずめ)」の中にこれと同じ画と歌の頁がある。 国立国会図書館のデジタル化資料 絵本物見岡には不載。 |
*屋根船 江戸で、屋根のある小型の船。屋形船より小さく、一人か二人で漕ぐもの。夏は簾、冬は障子で囲って、川遊びなどに用いた。日除け船。 *波の花 白波を花にたとえていう。 |
(6) 道灌山の蛍 やり水と こたちの中に 飛かふは 道灌山の ほたる合戦 碇友綱 宇治ならぬ 道くハん山も 十丈を さして蛍の 光源氏歟 蘿保曽道 |
*道灌山十丈と源氏物語物宇治十帖を掛ける。 源氏蛍と源氏物語の二十五帖「蛍」の場面を掛ける。源氏物語「蛍」 (光源氏36歳頃)五月雨の頃、兵部 卿宮から玉鬘に文が届き、源氏はそれに返事を書かせた。喜び勇んで六条院にやってきた兵部卿宮の前で、源氏は几帳の内に蛍を放ち、その光で玉鬘の姿を浮かび上がらせて見せた場面に因む。 *国会図書館近代デジタルライブラリー 日本 風俗図絵. 第12輯)「絵本江戸爵(えどすずめ)」の中にこれと同じ画と歌の頁がある。 国立国会図書館のデジタル化資料 絵本物見岡には不載。 |
*道灌山(どうかん‐やま) 東京の日暮里(につぽり)から田端に続く台地。武蔵野台地の縁辺部。 太田道灌の館址、または谷中(やなか)感応寺の開基である関長道閑の居所に由来する名という。 道灌山は薬草が豊富で、一年中採取者が訪れていたという。 また、虫聴きの名所として知られ、涼を求めて人々が集まったという。周辺は日暮らしの里とよばれた眺望絶景の地。 |
(7) 相撲 引分のすまひを もちと なづけしハ 腰の つよきを ほめちきりてや 宿屋飯盛 うちまハす 四本柱の 水引を 土俵ならへて せきとめよかし 赤土寿辺留 |
*水引幕 相撲で四本柱の上に、横に張る細長い幕。 *角力場 両国橋そばの回向院は明暦3年(1657) 大火の犠牲者を弔うために建てられた寺院であるが、回向院境内では勧進相撲が明和5年(1768)~明治42年(1909)旧国技館が完成するまで行われた。天保4年(1833)からは春秋二回の興行の定場所となった。 *国会図書館近代デジタルライブラリー 日本風俗図絵. 第12輯)「絵本江戸爵(えどすずめ)」の中にこれと同じ画と歌の頁がある。 国立国会図書館のデジタル化資料 絵本物見岡 には不載。 |
*すまひ 相撲(すもう)。すまい。 相撲は古代から行われてきたが江戸時代には、徳川将軍家の上覧相撲がたびたび開催され、職業としての大相撲が始まる。また座頭相撲とそこから派生した女相撲の興行も存在し、昭和30年代後半まで存続した。 江戸期には都市の発達に伴い大都市だけでなく地方都市においても相撲興行が行われ、歌舞伎や人形浄瑠璃などとともに催された。 *もち 持ち 歌合・囲碁・将棋などで、引分け。持(じ) |
相撲 ウィキペディア 回向院 公式ページ |
(8) 三谷堀 あさかほを 朝な朝なに みなれ棹 お客 さんやの 堀の目さまし 石亀蒔鈍人 客人の かへるさ まつか しら露の はや 起て居る 堀の 朝顔 紀躬鹿 |
(挿絵)早朝の三谷堀船着き場々景。見送る茶屋のおかみと郭の客二人。猪牙舟に棹さす船頭。 *国会図書館近代デジタルライブラリー 日本風俗図絵. 第12輯)「絵本江戸爵(えどすずめ)」の中にこれと同じ画と歌の頁がある。 国立国会図書館のデジタル化資料 絵本物見岡に は不載。 |
*三谷堀 江戸隅田川から今戸橋の下を通過して、山谷へ通じた掘割。山谷・三野・三谷 東京都台東区の旧町名。1657年(明暦三)の大火に元吉原町の遊郭が類焼して、この地に仮営業して新しい遊郭ができたから、新吉原の称ともなった。 *お客さんと三谷。みなれ 水馴れと見馴れ。 |
江戸の吉原(遊郭) |
(9)牛嶋 かりそろへ 年ある里ハ 稲の香に はなこそ とをせ 牛島の秋 あらかねの足引 背にひとり 腹に乳呑の 刈穂時 ひきつれて ゆく うし島の秋 冨家来富有 |
*うし島 「ひきつれてゆく牛」の「牛」と「牛嶋」の「牛」。 *国会図書館近代デジタルライブラリー 日本風俗図絵. 第12輯)「絵本江戸爵(えどすずめ)」の中にこれと同じ画と歌の頁がある。 国立国会図書館のデジタル化資料 絵本物見岡 には不載。 |
*○年有り 豊年である。 *隅田川に沿う旧本所一帯の土地を昔「牛嶋」と呼び、その鎮守として牛嶋神社と称した。牛嶋神社は昭和七年に現社地(向島新小梅町)に移転した。 * 牛島「牛に鼻輪を通す」の「牛」と「牛嶋」の 「牛」。 |
牛島神社 |
(10) 巣鴨 千代かけて くめや くめ この さゝかに(細蟹)の くもの巣鴨の 菊をさかなに 医者小路長頼 両国橋 三国一ともいふべし 諸講師の あわ雪あわ雪の声に 聞なれぬ つふすもおかし |
*講師 講釈師・講談師。 *戦談 講談。 *三伏 (「伏」は火気を恐れて金気が伏蔵する意)夏の極暑の期間。 *淡雪 泡雪豆腐の略。両国橋東詰日野屋東次郎の淡雪豆腐が有名。 *両国橋 隅田川に架かる橋で、東京都中央区東日本橋二丁目と墨田区両国一丁目とを連絡する。1661年(寛文一)完成。古来川開き花火の名所。 |
*さゝがに‐の(細蟹の) (枕詞) 「くも(蜘蛛・雲)」「い」「いと」にかかる。 *巣鴨東京都豊島区の一地区。江戸時代には中山道沿いの街村。江戸時代巣鴨には藤堂家下屋敷や六義園などの大名屋敷があり、植木屋が沢山住んでいた。 江戸時代後期頃、巣鴨・駒込の植木屋たちによって菊づくりがさかんになった。当時は庶民の間でも“菊合わせ”と呼ばれる新花の品評も行なわれ、菊人形”の見世物も文化年間に、染井の植木屋から始まったという。 *蜘蛛の巣と巣鴨の巣を掛ける。 *国会図書館近代デジタルライブラリー 日本風俗図絵. 第12輯)「絵本江戸爵(えどすずめ)」の中にこれと同じ画と歌の頁がある。 国立国会図書館のデジタル化資料 絵本物見岡 には載っていない。 |
(11) 隅田川の三叉 浪にさき立たて 影ミつまたと 歌にもよミし 月の名所にして 初夏の頃より 扇わするゝおりまでハ 昼夜のわかぢなく 誠に繁花なり 故人 翁か美しき 月も二八の 十六夜月を みつまたあめる ものでないとハ さりとては 後世にあたりし事かな |
*半井卜養(なからい‐ぼくよう)のことか。江戸初期の俳人・狂歌師。堺の人。松永貞徳の門。和歌・連歌・狂歌に名高く、「卜養狂歌集」がある。(1607~1678) *十六の夜(いざよいのつき)(陰暦一六日の月は、満月よりもおそく、ためらうようにして出てくるのでいう) 陰暦一六日の夜の月。 *あめる あんめる あるようである |
*隅田川 (古く墨田川・角田河とも書いた。 東岸の堤を隅田堤(墨堤)といい、古来桜の名所。 隅田公園がある。大川。 *三叉 江戸、中洲の俗称。隅田川の水流が新大橋 の下流付近で三股に分かれていた場所をいう。 観月の名所で月見の夜は多くの屋形船が集まり賑わ った。 |
(12) 本所五百羅漢 かけまくも此 江東第一にして 連り 釈迦に 説法もかくやと あやしまる。 |
*出塵(しゅつ‐じん)出家する。 *梵宮(ぼん‐ぐう) 寺院。 *鷲嶺(じゅれい・じゅりょう) 霊鷲山(りょうじゅせん)のこと。インドにある山の名。釈尊が法華経などを説いたという山。 挿絵はこのさざゐ堂から眼下の眺望を楽しむ人々。 |
*五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ) 天恩山五百羅漢寺は元禄8年(1695)、江戸本所五ツ目(現、江東区大3丁目)に創建された黄檗宗の名刹。明治41年目黒に移転した。羅漢堂の五百羅漢像は、寺院の創建に尽力した松雲禅師の作で、現存するのは305体。近世彫刻屈指の名品とされ、彫刻家高村光雲が手本にしたことで知られる。 | 五百羅漢寺 ウィキペディア |
(13) 深川 はぢす。待宵の 月は塩濱の 盃に 茶屋の をもひをたてし 数々とうたひ しは 歌の風流なるへし。 羽織芸者の 一節 家根舟をも かたむけん事 火縄箱の縄の たゝんうちにあり 〔絵中の幟の字=三井親和拝書〕 |
*羽織芸者 羽織を着て宴席に出た芸者で、江戸深川の芸妓(辰巳芸者)の俗称。 *火縄 竹・檜皮の繊維または木綿糸を縄に綯(な)い、これに硝石を吸収させたもの。火をつけておき煙草の火などをつけるのに用いる。 *三井親和元禄13年(1700年)~ 天明2年(1782)は、江戸時代中期の日本の書家・篆刻家。 |
*花車・華奢(きゃしゃ)上品。風流。だて。 *二軒茶屋 江東区門前仲町。深川の富岡八幡宮境内にあった高級料理屋で、松本、伊勢屋の二軒茶屋が知られており、雪見や月見で有名だった。 *矢来 竹や丸太を縦横に粗く組んで作った仮の囲い。 (挿絵)大型の屋形船に着飾った八人の男女らが乗って船遊びを楽しむ。深川の羽織芸者衆が三味線を弾き、踊りを披露している。見物人から声を掛けられ、扇子で顔を隠す男も。屋形は水引幕と沢山の提灯飾り、雪洞を設え、能筆で知られた三井親和揮毫の幟旗が立てられいる。 |
*屋形船 遊山船。河川整備が進んだ江戸時代に栄え、大名や豪商などに花見や月見、花火などの遊びに愛用された。特に隅田川の屋形船は金銀漆の装飾で飾り豪華であった。延宝年間(1680年頃)までが全盛期で、
当時の屋形船では芸者衆と遊ぶことが一般的となり、『其美筆紙に尽くし難し』とまで言われた。天和2年(1682年)に幕府は船の寸法を定め大船を禁止し、その後も相次ぐ倹約令により、また簡易な屋根船の新造によって屋形船の使用は減少した。 |
(14) 新吉原 この 白無垢は高橋よりとやら 此の朔日より 稲荷の 祭礼とてねりものを いだす。日々の物好奇に おどりやたい、 のうたふ獅子のきやり(木遣)、 ために 山谷船もどかしく 芸者中 中之町 仁和嘉 |
*遣歌 木遣の時に歌う一種の俗謡。祭礼の山車(だし)をひく時や祝儀などにも歌う。木遣節。木遣口説(くどき)。 ○長袖善く舞い多銭善く買う[韓非子五蠧] そでの長い着物を着れば踊りにふさわしく、多くの金をもっている人は商売がうまくゆく。何事も、素質や才能、条件にめぐまれた人はたやすく成功するたとえ。 *山谷船 山谷通いの遊客が乗り合った船。ちょきぶね。 *四手駕籠 四本の竹を柱とし、割竹で簡単に編んだ粗末な駕籠。辻待ちもあって、近世江戸庶民の専用。 |
*玉菊 享保の頃の江戸吉原の太夫。才色兼備で 諸芸に達した。(1702~1726) 玉菊灯籠 籠玉菊追善のため、吉原の茶屋で毎 年の盂蘭盆(うらぼん)に軒につるした灯籠。 *八朔 旧暦八月朔日(ついたち)のこと。1590 年(天正十八年)8月1日、徳川家康江戸入城。 このゆかりをもって祝日とした。 *八朔の白無垢(八朔の雪)八朔の日に吉原の 遊女が全員白無垢を着る風習があったが、そ のさまをいう語。八朔の白妙。 「絵本江戸風俗往来」によれば、元禄の頃に全 盛の名太夫高橋が八朔に白無垢を着たことか ら始まったという。 |
(挿絵)右頁「中之町。仁和嘉(にわか)」の纏を先頭に立てた「芸者中」の行列の最後尾に「獅子頭」を持つ妓婦が描かれている。この妓婦が木遣を歌ったのであろう。左頁は引き手茶屋で芸者中一行を見物する人々。 |
(15)浅草猿若町 顔見世のありさままことに 周の 孝霊五年の富士なるへし。 くだり役者の うちの 狂言の評ハ一日に千里を はしる。 ものは来世も のがるへからす。 |
*下り役者 上方から江戸へ下って来た役者。 *猿若町 東京都台東区の旧町名。水野越前守の天保の改革の際、風俗取締りのために、江戸市中に分散していた芝居類の興行物を浅草聖天町の一郭に集合させて名づけた芝居町。三区分して一丁目(中村座)・二丁目(市村座)・三丁目(守田座)と称した。明治以後町名だけ残る。 |
*顔見世興行 顔見世狂言を上演する興行。顔見世芝居。 顔見世狂言 江戸時代、毎年十月各劇場で俳優を入れ替え、翌年度興行すべき顔ぶれを定め、その一座で十一月初めて興行する狂言。 *元朝(がん‐ちょう) 元日の朝。 *孝霊天皇 記紀伝承で第七代の天皇。 富士山本宮浅間大社、富士山縁記によれば「富士権現。孝霊天皇五年ニ現ス。駿州富士山ハ是三国無双ノ名山タリ。」とあり、孝霊天皇の御代に駿河国に富士山が一夜にして湧き出したという伝説がある。 |
(挿絵)顔見世芝居小屋桟敷幕間の場景。大勢の着飾った男女が芝居と幕間の社交を楽しむ。桟敷には雑煮料理も運ばれている。 |
(16) 霜月行事 産神まいり。 かゝる花麗 なること他国 にきかず。 髪置のことは 弁髦と左伝にも 見へたれとも、 詩酒を設しことも なければ、こつちの 国の賑をミせたし。 花紅葉に 衣装の繍をあらそひしハ これや吾妻の 袖くらべならん |
*髪置き (1)幼児が頭髪を初めてのばす儀式。 すが糸で作った白髪をかぶせ、頂におしろいをつけて祝う。近世、公家は二歳、武家三歳、あるいは男子三歳・女子二歳、庶民は男女三歳の時、多く陰暦十一月一五日に行なった。かみ たて。櫛置き。 *弁髦(べんぼう)「弁」は元服の時にかぶる冠、「髦」は童子の垂髦(たれがみ)の意)冠を加える元服の礼。また、弁も髦もともに元服の儀式がすめばいらなくなるところから、転じて、無用の人や物のたとえにいう。 *左伝 「春秋左氏伝」の略称。 |
*袴着(はかまぎ)七五三の一。幼児に初めて袴を着せる儀式。古くは多く三歳、後世は五歳または七歳に行う。近世以降、陰暦十一月に行うのが通例。着袴(ちやつこ)。 *帯解き(おび‐とき) 幼児がそれまでの付帯をやめ、はじめて帯を用いる祝いの儀式。ふつう男児は五歳から九歳、女児は七歳の十一月の吉日(のち十五日)を選んで行う。帯直し。紐解き。 *産土参り(うぶすな‐まいり) (1)子供が生れて後、男子三十一日目、女子三十三日目(古くは百日目など、日数は時に異なる)に初めて産土神に参拝すること。宮参り。 (2)氏神に月詣ですること。氏神参り。 |
(17) 浅草年の市 東第一の大(市?) なり。極月十八日にかぎり 往来ハ とゞめ、船は川を せましとす。 陣笠ハ朝霜にきら めきわたり、革 羽織のいかめしきは 店をかりて 仕込餅ハ 十五日より 竹の皮につゝむ。 つむらんとよまれし 市にたゝれつらんか。 |
*為頼卿 藤原為頼 (ふじわらのためより)。生年未詳~長徳4(-998) 「市姫の神の斎垣のいかなれや あきなひ物に千代をつむらむ」 (夫木抄 藤原為頼) |
(挿絵)浅草寺観音堂の歳の市。大勢の人々で賑わっている。欄干下には多くの手桶が積まれている。武家商家ではこれを買って元日の朝、若水を汲み、神前にお供えした。年の市で商われたものは、しめ飾り、神棚、桶、餅、鯛.海老.昆布の海産物、羽子板.凧などの正月用玩具、まな板.柄杓(ひしゃく)などの台所用品などで、これらの店や植木屋、飲食店が軒を並べていた。 | 歳の市は浅草からはじまり各地へ広まった 江戸散策 |
(18) 後編 続物見岳 此絵本は風流なる 地名のものたるを著 絵本桐壺浮世草紙 二冊近刻 絵本 武者屯 二冊近刻 画工 関清長 彫工 朝倉権八 通本町三丁目 西村源六 浅草雷神門内 版元 伊勢屋吉重郎 東都 |