2018/7/30 改訂 表紙へ 目次へ 百人一首一夕話 巻之五 紫式部へ |
和歌 解説本 百人一首一夕話 九冊九巻 Hyakunin-isshu hitoyogatari 巻之七 Vol.7 Sutokuin 版元 敦賀屋九兵衛 天保四年(1833年) 個人所蔵 |
百人一首一夕話(九巻九冊)の内、第七巻から、表紙、崇徳院の章の本文二頁、挿絵六図と 翻刻文を掲載しました。翻刻に当たっては底本の旧漢字は現行活字体に改め、平仮名表記は 適宜 漢字に変換。句読点・濁点・「」は適宜補足。異体字は常用漢字に。振り仮名は 一部省略。カタカナ表記、送り仮名、一部常用外漢字、改行はあらかた底本の通りに。 其・此・也は原文のまま、扨は平仮名表記にしました。 なお本ページでは底本の本文画像28頁分の掲載を省略しましたが、下記サイトには「百人一首一夕話」 一巻~九巻までの全ての画像が公開されています。 跡見学園女子大学図書館所蔵 百人一首コレクションデータベース「百人一首一夕話」 早稲田大学図書館所蔵「百人一首一夕話」 東京学芸大学リポジトリ 貴重書 *「百人一首一夕話」上下二冊 岩波文庫 全翻刻文と挿絵が掲載されています。 *翻刻に際しては福岡県の松尾守也氏にご協力を頂きました。厚く御礼申し上げます。 |
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(見返し一丁二丁 画像省略) 百人一首 目録 美福門院の |
官軍白河殿を襲ふ 新院 |
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(三丁オモテ) 瀬をはやみ岩にせかるゝ たき河のわれても末に 逢はむとぞ思ふ が早き故、 るれと末にてハ又ひとつに わぶる心のせつなきに、 (上段注) 御 第一の 年五月廿八日三条 丸の亭に生れさせ給ふ。 にて御即位あり。保 元二年七月 にて御出家、同月 長寛二年八月 国にて 年七月 |
*待賢門院(たいけんもんいん) 鳥羽天皇の皇后。藤原璋子(しようし)。 権大納言公実の女(むすめ)。崇徳天皇・後白河天皇の母1118年(元永一) 皇后となり、1124(天治一)院号宣下。(1101~1145) *鳥羽天皇(とばてんのう)第七四代の天皇。名は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の第一皇子。崇徳天皇に譲位、1129年(大治四)白河法皇の後を 受けて三代二八年間院政。崇徳上皇らを排斥。(在位1107~1123)(1103 ~1156) |
讃岐院とも称。鳥羽天皇の第一皇子。父上皇より譲位させられ、新 院と呼ばれる。保元の乱に敗れ、讃岐国に配流、同地で崩。 (在位1123~1141)(1119~1164) *詞花和歌集・詞華和歌集(しかわかしゅう)勅撰和歌集。八代集の一。 十巻。1144年(天養一)藤原顕輔が崇徳上皇の院宣を受けて、仁平 (1151~1154)年中に奏上。 *遷幸 底本は霑″K |
(三丁ウラ) 一旦別るゝとも末にてハ又もとの如く寄り合はんと思ふ事ぞ と恋の心を 瀧川にたとへて詠ませ給へる也。 此帝 それ より十七年を経て 御 すなはち 門院を養母とし給へり。上皇此 月これ を立て崇徳院の東宮と定め給へり。かくて又翌年の 上皇 はからひ として、 |
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(四丁オモテ 画像省略) へり。これすなはち へり。させる御 まひて、其御子を早く御 より崇徳院を新院と号し奉る。此時、 専ら 年三月藤原 すめ也。 せしめ皇后とせられしかバこれより頼長の威勢日々に 年六月又藤原 なるを関白忠通養ふて中宮にかしづき 頼長と |
*藤原忠通(ふじわらのただみち)平安末 期の廷臣。忠実の子。摂政関白・太政大臣。 父や弟の頼長と対立したが、保元の乱後ま た氏長者となる。出家して法性寺入道前関 白太政大臣ともいう。詩歌に長じ、書法に も一家をなして、法性寺様といわれた。 家集「田多民治(ただみち)集」・詩集「法 性寺関白集」。(1097~1164) *美福門院(びふくもんいん)鳥羽天皇の皇 后。藤原得子。中納言長実の娘。近衛天皇 の母。(1117~1160) *藤原頼長(ふじわらのよりなが)平安後期 の廷臣。忠実の次子。左大臣。学問を好む。 父忠実の庇護を得て兄忠通と対立、氏長者 となる。鳥羽上皇の信任を失い、崇徳上皇 によって勢力を挽回しようと保元の乱を 起したが、後白河側の勝利に終わり、頼 長は家司である藤原成隆に抱えられ騎馬 にて御所から脱出するが、源重貞の放っ た矢が首に刺さり重傷を負って没。世に 宇治左大臣・悪左府という。 日記「台記」。(1120~1156) |
(四丁ウラ 画像省略)) とし、いよいよ やうになりたり。しかるに ければ、法皇の御 つけ奉らる。これすなはち 徳院と御同母也。此年 にして 先に新院 新院の御子 けるに美福門院 新院の (五丁オモテ 画像省略 ) 皇に 故に新院ハ しめ給ふ也と推量し給ひて、大にこれをふづくミ 不平なりしかば、遂に左大臣頼長と計りて御位を奪ハん事を 立ち給へる也。しかれども少しも色に 給ひけるに今月法皇 ひ得てひそかに兵を催し其変に乗ぜんと思しめし、先ず 義と平忠政とを 白川の宮にぞ集まりける。しかるに其事早く 大に驚かせ給ひ直に の嫡子義朝・源頼政・平清盛等兵を 新院にハ為義・忠政等をして軍事を |
*近衛天皇(このえてんのう)第七六代の 天皇。名は体仁(なりひと)。底本の読みは 「としひと」広辞苑は「なりひと」。 鳥羽天皇の第九皇子。鳥羽法皇が院政。 (在位 1141~1155)(1139~1155) *後白河天皇 第七七代の天皇。名は雅仁 (まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子。即位 の翌年、保元の乱が起る。二条天皇に譲 位後、五代三四年にわたって院政。1169 年(嘉応一)法皇となり、造寺・造仏を盛 んに行い、また今様を好んで「梁塵秘抄」 を撰す。(在位 1155~1158)(1127~1192) *讒(ざん) そしること。 *ふづくみ ふづくむ 怒る。 *奪はん 底本は「簒はん」。 *源為義(みなもとのためよし)平安末期 の武将。義親の子。検非違使となって六 条判官と称される。保元の乱に崇徳上皇 の白河殿を守ったが、敗れて斬られた。 (1096~1156) *源義朝(みなもとのよしとも)平安末期 の武将。為義の長男。下野守。保元の乱 に後白河天皇方に参加し、白河殿を陥れ、 左馬頭となるが、清盛と不和となり、 藤原信頼と結んで平治の乱を起し、敗 れて尾張に逃れ、長田忠致(おさだただ むね)に殺された。(1123~1160) *源頼政(みなもとのよりまさ)平安末期 の武将・歌人。摂津源氏源 仲政の長男。 白河法皇にぬきんでられ兵庫頭。保元・ 平治の乱に功をたてた。剃髪して世に源 三位入道と称。後に以仁王(もちひとおう) を奉じて平氏追討を図り、事破れて宇治 平等院で自殺。家集「源三位頼政集」。 宮中で鵺(ぬえ)を退治した話は有名。 (1104~1180) *平清盛(たいらのきよもり)平安末期の 武将。忠盛の長子。平相国・浄海入道・ 六波羅殿などとも。保元・平治の乱後、 源氏に代って勢力を得、累進して従一位 太政大臣。娘徳子を高倉天皇の皇后とし、 その子安徳天皇を位につけ、皇室の外戚 として勢力を誇った。子弟はみな顕官と なり専横な振舞が多く、その勢力を除こ うとする企てもしばしば行われ、没後数 年にして平氏の嫡流は滅亡。(1118~1181) |
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(六丁オモテ) (保元の乱 合戦図) 為朝 もの万に一生を得るなし。兄義朝。 からずと笑ふ。為朝応ずるに兄 を重んじ。為に一矢を 命を得ずんば我辞せずと。大に戦ふ。 以下三紙をつらねて。保元交戦の 図なり。人物の態。兵器の製。画 史の精錬。 これを察すべし。 |
(五丁ウラ) (強弓で知られた為朝の勇姿) *源為朝(みなもとのためとも)平安末期の武将。為義の八男。豪勇で射術 に長じ、九州に勢力を張り、鎮西八郎と称。保元の乱には崇徳上皇方につ き、敗れて伊豆大島に流罪。のち、工藤茂光の討伐軍と戦って自殺。 (1139~1170) *源義朝(みなもとのよしとも)平安末期の武将。為義の長男。下野守。保元 の乱に後白河天皇方に参加し、白河殿を陥れ、左馬頭となるが清盛と不和 となり藤原信頼と結んで平治の乱を起し、敗れて尾張に逃れ、長田忠致(お さだただむね)に殺された。 *兜 底本は鑿 *保元の乱(ほうげんのらん)保元元年(1156年)七月に起った内乱。皇室内部 では崇徳上皇と後白河天皇と、摂関家では藤原頼長と忠通との対立が激化 し、崇徳・頼長側は源為義、後白河・忠通側は平清盛・源義朝の軍を主力と して戦ったが、崇徳側は敗れ、上皇は讃岐に流された。この乱は武士の政界 進出の大きな契機となったといわれる。 *看官(かん‐かん) 読者。見る人。 |
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(七丁オモテ) (保元の乱 合戦図) |
(六丁ウラ) |
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(八丁オモテ) ((保元の乱 合戦図) |
(七丁ウラ) |
(八丁ウラ~十二丁オモテ画像省略) (八丁ウラ) 為朝進み 皇居を襲ひ奉り風の 候へば物の数にも候ハず。さて天皇の 聞に に るに義朝 南都の (九丁オモテ) とて に かば、義朝・清盛・頼政等 此時頼長大軍襲ひ来るよしを聞て大に恐れ 知られねば 日の ぶろう」とて其 守れる東の門に向ひ、清盛ハ為朝の守れる ける。此時清盛が 為朝これを射て伊藤六が胸板を貫き背を 其矢とまりければ、清盛が |
*「兵は神速を尊ぶ」 三国志・ 魏書・郭嘉伝にある 言葉。戦は何よりも迅速にする ことが必要である。 *官軍襲ひ 底本は「官軍競い」 *清盛が士卒戦き 底本は「士卒慓き」 |
(九丁ウラ) 為朝又これをも も大に恐れて楯を為朝に突く事 此由を聞て曰く、「為朝いまだ いひふらせるならんとて、 にして為朝の陣に向ひければ、為朝 清」と名乗りもあへず弓を引て 為朝大に怒り、 若者共二十八騎大に 走りけれバ、為朝これを追ふ事 陣に入り、大いに驚き 清 (十丁オモテ) けれバ、義朝 ひ急にこれを取 井 為朝が 為朝ハいまだ戦ひの 射るに、一つも の軍兵おのづから開き 官軍しばしば利を失ひける。此時義朝 を放ちて戦の 失ふに到る。官軍ハ |
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*麾下(き‐か) (大将の指図する旗の下の 意から)(1)将軍直属の家来。 旗下。 *挫ぐ ひしぐ。くじく。 *尖矢・利雁矢(とがりや) 鏃(やじり)の一種。大形で 先端を鋭くとがらせたもの。 また、この鏃をつけ矢。 |
(十丁ウラ) けれバ 光弘馬に乗ながら白川殿の 如くせめ来り候上、猛火既に此 からず、急ぎ 新院ハ東西を失ひて けるが余りに いらせ、頼長公の馬の尻に 給ひ北白川をさして 矢一筋来りて頼長の 血の走る事 (十一丁オモテ) 頸を膝にかきのせ、袖を顔におほひて泣居たり。 来りて、抱きつきけれどもかひなし。 先 バ 議なれ、神矢なるかといふ者も有りけり。かくて血の更に 止まらざりけれバ 白青の狩衣も 宜ハず。さらば暫く休め奉らんと思へども、敵軍追来る由聞こえけれバ の 泊りけるが、 |
(十一丁ウラ) 小舟を借て乗せ参らせ、上に柴など取覆ひ桂川を下りに落し参 らするに、日暮けれバ其夜は賀茂河尻に留まりて、明る十三日に 入給ふに、頼長御心地次第に弱りて今ハ限りと見え給へバ、 の 此よし申させければ、すなはち「迎へ参らせたくハ 余りなる御心憂さにやありけん、 事やハある、さやうの不運の者に対面せん事由なし、 見ざらん方に行け」といふべしと り参りて此よし申けれバ頼長公打うなづかせ給ひで、やがて御 変りけるが舌の先を食ひ切て 奉らんとて、 けれども、 (十二オモテ) 奉りけるが、 仕りて、すなはち出家して 参り、ありつる しみ給ふ事限りなし。 せきあへ給ハぬを見奉るもあはれ也。さて新院ハ 家弘・光弘・ 険しくて難所多ければ御馬を止めて、御 ける。御 ありきなれば、 給ひけり。人々 ある」と召されければ、皆声々に名乗けるに。「水やある」と召されければ、 |
*兵仗(ひょうじょう) 昔、上皇・摂関・大臣など、 身分の高い人の外出のとき 護衛にあたった武官。随身。 *般若野 般若寺近くの般若 山のほとり。 *五三昧(ご‐さんまい) 平安末期に著名だった畿内 の五ヵ所の火葬場・墓場。 |
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(十三丁オモテ) |
(十二丁ウラ) 学ぶは。 進め。国家を 為なり。 君を 遂に おち入り。 よくせず。 およばざる ことを。 |
(十三丁ウラ~十六丁ウラ 画像省略) (十三ウラ) 我もと求むれどもなかりけり。しかるに法師の水 を、家弘乞ひ受けて参らせけり。是に少し させ給へば、「おのおの 申せば、「武士共は皆いづちへも 休むべし。もし 助かりなん」と ぬる上ハ、いづ方へか 御 思ひしかど今ハ何とも かくてあらバ命を 恐れありとて、武士共 義・忠政は三井寺の (十四丁オモテ) 方へ引下ろし参らせて、御上に 御出家ありたき由仰せられけれども、「此山中にては叶ひ難き」よし申上げ、 「日暮ければ家弘 寺の辺にて 仕るべき」と申ければ、「阿波の局の わざに御輿を 人 条坊門まで て後は其 「さらば の世の中なれバ、諸事に 今ハ御身を寄せらるべき家もなきに光弘等も習ハぬ |
(十四丁ウラ) 心細く思へども、山中にで水 方へ すゝめ奉りける。新院これにて てけり。「かくてハ こそ れば御室へぞなし奉る。此仁和寺の門主 宮にて新院と 殿へ御出ありて いとま申て 語らひ、 十一日寅の刻に (十五丁オモテ) 公も りてこの由を いたす」由 御所へ 橋の守護の為に周防判官 関白忠通公もとの如く なり給ひしが、今又もとに返り給へる也。扨 賞行はれ、 になされけるに、義朝申けるは「此 |
*寅の刻 午前四時頃 *辰の刻 午前八時頃 *未の刻 午後二時頃 *叡感 天子が感嘆なさる こと。天子のおほめ。 *申の刻 午後四時ごろ *子の刻 真夜中の十 二時頃 *多田満仲=源満仲平安 中期の武将。経基の長子。 鎮守府将軍。武略に富み、 摂津多田に住して多田氏 を称し、家子郎党を養い、 清和源氏の基礎を固めた。 (―~997) |
(十五丁ウラ) しかば、其跡 大の 賜ハり其 一身 重きによりて 事に侍り。しかれども身の不義を忘れ、 何ぞなからんや」と申けれバ、「此条尤道理也」とて なされける。さる程に新院ハ の宮にて渡らせ給へバ、 五の宮より (十六丁オモテ) られて新院を守護し奉られけり。あまりの 続けさせ給ふ。 思ひきや身をうき雲となし果てゝ あらしの風に任すべしとは 憂きことのまどろむ程ハ忘られて かくて 知らざれば、 からん」とや思ひけん。皆出家の に刑に 尋ね出して ども、主上 |
*入道信西=藤原通憲 (ふじわらのみちのり)平安後期 の廷臣。官は少納言にとどまった が、博学で著名。剃髪して信西 (しんぜい)と称し、後白河天皇の 近臣として活躍。「本朝世紀」 「法曹類林」「日本紀注」など著 書が多い。平治の乱に自殺。 (―~1159) *うきことのまとろむほとはわすられて さむれは夢の心ちこそすれ 千載集 巻17 雑中1125 読人不知 *誅(ちゅう) 罪をせめること。 罪ある者を殺すこと。 *緩怠(かん‐たい)怠ること。 遅滞。 |
(十六丁ウラ) かば、義朝今ハ力なく涙を押へて鎌田次郎に申されけるハ、「 父を かな。私の 給ふなれバ めぐらすべき御命ならぬにとりてハ、 かけて御覧候ハんより、同じくハ御 をこそ、よくよくせさせ給ハんずれ」と申せば、「さらば 内へ入られけり。かくて為義ハ鎌田次郎 賜ハりければ、円覚寺に納め墓を建て (十七丁オモテ) をぞいたされける。されど義朝まことに父を助けんと思ハんにハは、などか其 道なかるべき。今度の恩給に申 救ハざらん。勅命に従ふといへども実ハ義に背ける故にや。 りしかど異なる 為に身を滅ぼしけるこそあさましけれ。かくて保元二年七月廿一日、蔵人左 国へ移し奉るべき由を りて事定まりしかば御心細く ハします程いかやうにもなし奉れと、 奉る。僧正しきりに り御出家なさせ奉れり。翌廿三日いまだ夜明けざる程に |
*仁和寺 総本山仁和寺公式ページ |
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(十八丁オモテ)(崇徳院(讃岐の院) 怒髪天を衝くの図) むなし からざる こゝに おこれり。 |
(十七丁ウラ) *『保元物語』によると、崇徳は讃岐での軟禁生活の中で仏教に 深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・ 涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して(血で書 いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反 省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝 廷に差し出したところ、後白河は「呪詛が込められているのでは ないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに 激しく怒った崇徳は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁と なり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向 (えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のよう な姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。 ウィキペディア崇徳天皇 |
(十八丁ウラ~二十二ウラ画像省略) (十八丁ウラ) させ給ふ。 等御車差しよせて、 されければ女房達声を等しくして泣かなしめり。まことに日頃の にハ 左右に 甲冑を なり。夜もほのぼのと明行けば鳥羽の南の門へ御車をやり出すに、国司 ろしける。これを見て御供に従ふ者ハいふに及ばず、あやしの 袖をしぼらぬハなかりけり。程なく 御所を造り出さゞりけれバ、当国の (十九丁オモテ) なく国司 又 三度の させ給ふ。御 申させ給へと 給ひて三年の間に五部の 経を捨置かん事も 参らせばや」と、 御 浜千鳥あとハ都へ通へども 身ハ松やまに とよミ給ひて書き添へさせ給ひしかば、御室より此御ふミを以て関白 |
*散位(さん‐に) 律令制で、 位階だけあって官職について いない者。 蔭位(おんい)により官位が あって、役職のない者、また は職を辞した者などの称。 散官。散事。 *一宇(いち‐う)(「宇」は家 の意)一棟(ひとむね)の家。一軒。 |
(十九丁ウラ) 忠通公へ 西を召て るしなくて、 れぬ由御返事ありければ、新院此よし聞召すより大に 「今ハ 許されねバ、今生の 舌の先を食ひ切り給ひ其の血を以て御経の軸の 遊バしける。其文 国家を し給へ 其 (二十丁オモテ) に現れておハしますこそ恐ろしけれ。其の頃都に小川の 世を捨てたる 参らせけるばかりの人なりれバ、さしも 方情深き人なりければ只一人ミづから 国へ下りて御所のわたりによそながら 隈無かりければ蓮如心を澄まして、笛を吹きて りけるに、 蓮如涙に 恋しき |
*許されねば 原文は「宥されねば」 *蓮如(れんにょ)室町時代、 浄土真宗中興の祖。諱は兼 寿。本願寺八世。比叡山衆 徒の襲撃に遭い、京都東山 大谷を出て1471年(文明三) 越前吉崎に赴き、北陸地方 を教化。さらに山科・石山 に本願寺を建立、本願寺を 真宗を代表する強大な宗門 に成長させた。「正信偈(し ようしんげ)大意」「御文 (おふみ)」「領解文」など 布教のための著が多い。 諡号(しごう)は慧灯大師。 (1415~1499) |
(二十丁ウラ) 思召しけれど問ふにつらさも思ひ出でぬべし。又かゝるあさましき えん事もつゝましければ中々よしなし」とて、たゞ御涙をのミぞ流させ給 ひける。 朝倉や 院御返歌あり、 朝倉やたゞ 蓮如いと悲しく覚へて、これを 寛二年八月廿四日、御年四十六にて讃岐の けり。讃岐へ御 り火葬になし奉りけるが、 けるとかや。其 (二十一丁オモテ) 岐国に入て松山の津といふ所に行ぬ。こゝハ新院の流されて渡らせ給ひし 所ぞかしと思ひ出し奉り、昔恋しく尋ね参らせけれども其 りければ、あはれに 松山の波に流れてこし舟の やがて空しくなりにけるかな と詠みて、 跡なきもことわりと思して「 寺にあり」と聞きて尋ね参りたりけるに、あやしの 茂くして其寺ハ よしや君むかしの玉の と詠みて七箇日逗留して、花を もとを削りてなからん時の形見にもとて、一首の歌をぞ |
*貌 底本は「皃」 *朝倉宮 朝倉橘広庭宮(あさくらの たちばなのひろにわのみや)の略称。 斉明天皇の行宮(あんぐう)。661年 百済救援のため滞在中、同年天皇 ここに没した。伝承地は福岡県朝 倉市山田、一説に同町須川。木丸 殿(きのまろどの)。朝倉行宮。 *木の丸殿 丸木のままで削らずに 造った粗末な御殿。特に筑前国朝 倉郡にあった斉明天皇の行宮(あん ぐう)をいう。黒木の殿。きのまる どの。 *朝倉や木の丸殿に我がをれば 名のりをしつつ 行くは誰が子ぞ (新古今集 巻十七 雑中 1689 天智天皇) *蜑(あま)漁夫。海女。海士。 *香川県さぬき市志度。 *白峰寺 四国88ケ所 第81番札所霊場 (八十一番)崇徳天皇菩提所 綾松山 白峯寺(白峰寺)公式ウェブサイト 頓証寺殿 *西行(さいぎょう)平安末・鎌倉初期 の歌僧。俗名、佐藤義清(のりきよ)。 法名、円位。鳥羽上皇に仕えて北面の 武士。二三歳の時、無常を感じて僧と なり、高野山、晩年は伊勢を本拠に、 陸奥・四国にも旅し、河内国の弘川寺 で没。述懐歌にすぐれ、新古今集には 九四首の最多歌数採録。家集「山家 (さんか)集」。(1118~1190) *まつ山のなみになかれてこしふねの やかてむなしく成りにけるかな 山家集 1353 西行 *よしやきみむかしのたまのゆかとても かからん後は何にかはせん 山家集 1355 西行 |
(二十一丁ウラ) かく書き記して出けり。後の世に 松の事也。新院讃岐にて 六月廿九日追号ありて られけれど 清盛 大臣 あらず崇徳院の とて、 廟を造営せらる。此所ハ 頃より けるが、成範卿ハ故少納言入道信西が子息也。信西保元の (二十二丁オモテ) 専ら事を行ひ、新院を かくて程なく御廟成就しければ、同年四月十五日崇徳院御遷宮の 儀式あり法皇 より金銅にて 奉られぬ。さて り、法皇の 臣に其告文を さて故 |
*ひさにへてわか後のよをとへよまつ 跡しのふへき人もなきみそ 山家集1358 西行 *朝家(ちょう‐か) 皇室。 *大宰権帥(だざい‐の‐ごんのそつ) 大宰帥の権官(ごんかん)。納言(なごん) 以上の者を以て任じ、中央高官の左遷の 目的で任命されたほか、親王が帥に任ぜ られた場合、代って府務を統督した。 |
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(二十三丁オモテ)(蓮如上人讃岐仮御所を訪ねる図) ☆ さゝげ。 なぐさめ 奉りしは。 かの 去るの。 |
(二十二丁ウラ) に の ゆるさざるを ほとりを 立さらず。 和歌を ☆ 左へ |
*『太平記』巻4「呉越軍の事」 囚われの越王を励ますため、 忠臣范蠡(はんれい)は魚売りに変装し、書を魚腹に収めて獄中 に投げ入れた〔*『三国伝記』巻6-11に類話〕。 *日本の南北朝時代、南朝方の武士児島高徳は、隠岐に流される途 中の後醍醐天皇を救出しようとしたが失敗し、山中の桜の木に 「天莫空勾践 時非無范蠡」 (天(てん)勾践(こうせん)を空 (むな)しゅうすること莫(なか)れ、時に范蠡(はんれい)無きにし も非(あら)ず)意味「必ずや越王勾践のときの范蠡のような忠臣 が現れます。あきらめないでください」の十字詩を彫りつけた。 |
(二十三丁ウラ) 又此 より後建久四年に勅ありて毎年八月に勅使を遣ハされて、其 を祭らしめ給ひ。 六百五十回の聖忌に当らせ給ふとて、白峰の御廟に 和歌御奉納の事ある由、 (以下二十四丁~五十四丁ウラまで 本文・裏表紙画像と翻刻文省略) |
*廟 底本は蠎ソ。びょう。 みたまや。 *縉紳(しん‐しん)大帯に 笏をさしはさむ。朝服。官位 の高い人。 |