2018/7/30 改訂

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百人一首一夕話
巻之五 紫式部へ


 和歌 解説本

百人一首一夕話 
(ひゃくにんいっしゅひとよがたり) 九冊九巻
Hyakunin-isshu hitoyogatari

巻之七  崇徳院(すとくいん) (三丁オモテ~二十三丁ウラ)
Vol.7 Sutokuin
尾崎雅嘉(おざきまさよし)著 大石真虎(おおいしまとら)画  
版元 敦賀屋九兵衛  天保四年(1833年)

個人所蔵




 
 
 百人一首一夕話(九巻九冊)の内、第七巻から、表紙、崇徳院の章の本文二頁、挿絵六図と
  翻刻文を掲載しました。翻刻に当たっては底本の旧漢字は現行活字体に改め、平仮名表記は
  適宜  漢字に変換。句読点・濁点・「」は適宜補足。異体字は常用漢字に。振り仮名は
  一部省略。カタカナ表記、送り仮名、一部常用外漢字、改行はあらかた底本の通りに。
  其・此・也は原文のまま、扨は平仮名表記にしました。



  
なお本ページでは底本の本文画像28頁分の掲載を省略しましたが、下記サイトには「百人一首
一夕話」
  一巻~九巻までの全ての画像が公開されています。
  
跡見学園女子大学図書館所蔵 百人一首コレクションデータベース「百人一首一夕話」
  早稲田大学図書館所蔵「百人一首一夕話」
  東京学芸大学リポジトリ 貴重書

 *「百人一首一夕話」上下二冊 岩波文庫  全翻刻文と挿絵が掲載されています。
 *翻刻に際しては福岡県の松尾守也氏にご協力を頂きました。厚く御礼申し上げます。

            

          



     (見返し一丁二丁    画像省略)
 百人一首一夕話(ひとよがたり) 巻之七
    目録 
   崇徳院(すとくいん) 
    御製訳(ごせいのやく) 
    美福門院の(ものがたり)  
    
鎮西(ちんぜい)八郎の
    
西行(さいぎやう)白峰(しらみね)の歌の
   







官軍白河殿を襲ふ 
新院
讃岐(さぬき)(うつ)らせ給ふ)
(ひさ)の松の
    


              

 (三丁オモテ)
    
 崇徳院
 瀬をはやみ岩にせかるゝ
 たき河のわれても末に
 逢はむとぞ思ふ


 
詞花集(しくわしふ)(こひの)上題しらずとあり。御製(ごせい)(こゝろ)ハ浅瀬の流
 が早き故、河中(かハなか)にある岩にせかるゝ水が両方へわかれてなか
 るれと末にてハ又ひとつに(ながれ)合ふやうに人をこひ
 わぶる心のせつなきに、
(その)中を(さまた)ぐる人ありて


  
(上段注)
 (いミな)顕仁(あきひと)鳥羽院
 第一の皇子(わうじ)。御母ハ  
 待賢門院(たいけんもんいん)也。元永
 年五月廿八日三条(からす)
 丸の亭に生れさせ給ふ。
 保安(ほうあん)四年二月五歳
 にて御即位あり。保
 元二年七月仁和(にんわ)
 にて御出家、同月
 讃岐国(さぬきのくに)遷幸(せんこう)有。
 長寛二年八月(かの)
 国にて崩御(ほうぎよ)治承(ぢしやう)
 年七月崇徳院(すとくいん)
 (おくりな)を奉らる。


*待賢門院(たいけんもんいん) 鳥羽天皇の皇后。藤原璋子(しようし)。
 権大納言公実の女(むすめ)。崇徳天皇・後白河天皇の母1118年(元永一)
 皇后となり、1124(天治一)院号宣下。(1101~1145)

*鳥羽天皇(とばてんのう)第七四代の天皇。名は宗仁(むねひと)。
 堀河天皇の第一皇子。崇徳天皇に譲位、1129年(大治四)白河法皇の後を
 受けて三代二八年間院政。崇徳上皇らを排斥。(在位1107~1123)(1103
 ~1156)
崇徳天皇(すとくてんのう)第七五代の天皇。名は顕仁(あきひと)。
 讃岐院とも称。鳥羽天皇の第一皇子。父上皇より譲位させられ、新
 院と呼ばれる。保元の乱に敗れ、讃岐国に配流、同地で崩。
 (在位1123~1141)(1119~1164)
*詞花和歌集・詞華和歌集(しかわかしゅう)勅撰和歌集。八代集の一。
 十巻。1144年(天養一)藤原顕輔が崇徳上皇の院宣を受けて、仁平
 (1151~1154)年中に奏上。
*遷幸 底本は霑″K



  (三丁ウラ)
 一旦別るゝとも末にてハ又もとの如く寄り合はんと思ふ事ぞ
 と恋の心を
 瀧川にたとへて詠ませ給へる也。


       崇徳院(すとくいん)(ものがたり)

 
此帝
保安(ほんあん)四年二月五歳にて位に(つか)せられ関白(くわんばく)忠通公摂政たり。
 それ
 より十七年を経て
保延(ほうえん)五年五月御父鳥羽上皇御寵愛の藤原(ふじわらの)
 
得子(とくし)(後に美福門院と申奉る)御子体仁君(としひとぎみ)を生み給ひけれバ上皇
 御
悦斜(よろこびなゝめ)ならず。
 すなはち
今上(きんじやう)崇徳院(すとくいん)の御養子とし給ひ。崇徳院の御(きさき)皇嘉(くわうか)
 門院を養母とし給へり。上皇此体仁君(としひとぎみ)を御寵愛の余り、(おなじ)
 月これ
 を立て崇徳院の東宮と定め給へり。かくて又翌年の
永治(えいぢ)元年
 上皇
 
御落飾(ごらくしよく)ありて鳥羽法皇と号し奉る。其年の十二月法皇の御
 はからひ
 として、
(にはか)当今(たうぎん)崇徳院の御位(ミくらい)を廃して体仁(としひと)君を(くらい)(つけ)たま  
 *体仁君=底本は「體仁君」



  (四丁オモテ 画像省略)
 へり。これすなはち
近衛院(こんえのいん)也。崇徳院ハ御在位十八年といへども(いとけなく)くして
 
御位(ミくらい)に即かせ給ひしかば、今年(こんねん)(わづ)かに二十二歳にて御位を廃せられ給
 へり。させる御
(あやまち)ハなけれども法皇、美福門院(びふくもんいん)の愛に(おぼ)れた
 まひて、其御子を早く御
(くらい)につけんとてかく計らひ給ひし也。これ
 より崇徳院を新院と号し奉る。此時、体仁(としひと)
御年三歳なりしかば法王
 専ら
政事(せいじ)(ほしいまゝ)にし給へり。かくて近衛院の御代(みよ)となりて、久安(きうあん)
 年三月藤原
多子(たし)を以て皇后とせらる。多子ハ徳大寺中納言公能のむ
 すめ也。
容貌(ようばう)美麗(びれい)なるを以て左大臣頼長これを養女として入内(じゆだい)
 せしめ皇后とせられしかバこれより頼長の威勢日々に(さかん)になりたり。同
 年六月又藤原
呈子(ていし)を以て中宮とせらる。此呈子ハ藤原伊通(これミち)のむすめ
 なるを関白忠通養ふて中宮にかしづき(いれ)られたる也。初め忠通弟の
 頼長と其威(そのい)を争ひて兄弟不和なりしに、頼長多子(たし)(やしなふ)て后

*藤原忠通(ふじわらのただみち)平安末
 期の廷臣。忠実の子。摂政関白・太政大臣。
 父や弟の頼長と対立したが、保元の乱後ま
 た氏長者となる。出家して法性寺入道前関
 白太政大臣ともいう。詩歌に長じ、書法に
 も一家をなして、法性寺様といわれた。
 家集「田多民治(ただみち)集」・詩集「法
 性寺関白集」。(1097~1164)

*美福門院(びふくもんいん)鳥羽天皇の皇
 后。藤原得子。中納言長実の娘。近衛天皇
 の母。(1117~1160)

*藤原頼長(ふじわらのよりなが)平安後期
 の廷臣。忠実の次子。左大臣。学問を好む。
 父忠実の庇護を得て兄忠通と対立、氏長者
 となる。鳥羽上皇の信任を失い、崇徳上皇
 によって勢力を挽回しようと保元の乱を
 起したが、後白河側の勝利に終わり、頼
 長は家司である藤原成隆に抱えられ騎馬
 にて御所から脱出するが、源重貞の放っ
 た矢が首に刺さり重傷を負って没。世に
 宇治左大臣・悪左府という。
 日記「台記」。(1120~1156
)




 
(四丁ウラ 画像省略)
 とし、いよいよ
其権(そのけん)(ほしいまゝ)にせらるによりて、兄の忠通公も負けじ(だましい)に 
 
呈子(ていし)(やしなふ)て中宮に(そな)へられしより、ますます兄弟其威(そのい)をあらそハるゝ
 やうになりたり。しかるに
久寿(きうじゆ)二年七月近衛院(こんえのいん)十七歳にて崩じ給ひ
 ければ、法皇の御
(はか)らひとして鳥羽院第四の御子雅仁(まさひと)を以て位に
 つけ奉らる。これすなはち
後白河院(ごしらかハのいん)也。雅仁御母ハ待賢門院(たいけんもんいん)にして崇
 徳院と御同母也。此年
保元(ほうげん)と改元ありしに七月鳥羽法皇五十四歳
 にして(ほう)じ給ひ。同月崇徳院謀反(むほん)を起し給へり。此御謀反の趣意(しゆい)
 先に新院美福門院(びふくもんいん)の為に罪なくて天位を廃せられ給ひけれど
 近衛院(こんえのいん)早世(さうせい)ましまして譲らせ給ふべき皇子(わうじ)もなかりければ、諸卿共に

 新院の御子重仁(しげひと)継目(つぎめ)たらんと思ひ、新院もひそかに喜バせおハし
 けるに美福門院
物妬(ものねた)ミ深き御心より此度御子近衛院早世し給へるハ
 新院の
呪詛(じゆそ)し給ひしなるべしと疑ハせ給ひ。又新院の御事を法



 
(五丁オモテ  画像省略
 皇に
(ざん)し給ひしかば法皇これより又新院の御心(ミこゝろ)を疑ひ給へり。此
 故に新院ハ今度(このたび)御子(おんこ)重仁(しげひと)を継目とし給ハずして、雅仁(まさひと)を位に(つか)
 しめ給ふ也と推量し給ひて、大にこれをふづくミ(おぼ)して御心(ミこゝろ)いよいよ
 不平なりしかば、遂に左大臣頼長と計りて御位を奪ハん事を(おぼ)
 立ち給へる也。しかれども少しも色に(いだ)し給ハずして(ひま)(うかゞ)
 給ひけるに今月法皇(ほう)し給ひて都の中物(うちもの)さびしければ此隙を窺
 ひ得てひそかに兵を催し其変に乗ぜんと思しめし、先ず密々(ミつミつ)にて源為
 義と平忠政とを(めさ)れけれバ此二人(めし)に応じて諸子を(ひき)ひ新院の
 白川の宮にぞ集まりける。しかるに其事早く禁廷(きんてい)漏聞(もれきこ)えければ(みかど)
 大に驚かせ給ひ直に(みことのり)を下して急に軍兵を(めさ)れけるに、源為義
 の嫡子義朝・源頼政・平清盛等兵を(そつ)して内裏(だいり)を守れり。此時
 新院にハ為義・忠政等をして軍事を()せしめ給ふに、為義の八男







*近衛天皇(このえてんのう)第七六代の
 天皇。名は体仁(なりひと)。底本の読みは
 「としひと」広辞苑は「なりひと」。
 鳥羽天皇の第九皇子。鳥羽法皇が院政。
 (在位 1141~1155)(1139~1155)


*後白河天皇 第七七代の天皇。名は雅仁
 (まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子。即位
 の翌年、保元の乱が起る。二条天皇に譲
 位後、五代三四年にわたって院政。1169
 年(嘉応一)法皇となり、造寺・造仏を盛
 んに行い、また今様を好んで「梁塵秘抄」
 を撰す。(在位 1155~1158)(1127~1192)
  








*讒(ざん) そしること。
*ふづくみ ふづくむ 怒る。
*奪はん 底本は「簒はん」。

*源為義(みなもとのためよし)平安末期
 の武将。義親の子。検非違使となって六
 条判官と称される。保元の乱に崇徳上皇
 の白河殿を守ったが、敗れて斬られた。
 (1096~1156)

*源義朝(みなもとのよしとも)平安末期
 の武将。為義の長男。下野守。保元の乱
 に後白河天皇方に参加し、白河殿を陥れ、
 左馬頭となるが、清盛と不和となり、
 藤原信頼と結んで平治の乱を起し、敗
 れて尾張に逃れ、長田忠致(おさだただ
 むね)に殺された。(1123~1160)

*源頼政(みなもとのよりまさ)平安末期
 の武将・歌人。摂津源氏源 仲政の長男。
 白河法皇にぬきんでられ兵庫頭。保元・
 平治の乱に功をたてた。剃髪して世に源
 三位入道と称。後に以仁王(もちひとおう)
 を奉じて平氏追討を図り、事破れて宇治
 平等院で自殺。家集「源三位頼政集」。
 宮中で鵺(ぬえ)を退治した話は有名。
 (1104~1180)

*平清盛(たいらのきよもり)平安末期の
 武将。忠盛の長子。平相国・浄海入道・
 六波羅殿などとも。保元・平治の乱後、
 源氏に代って勢力を得、累進して従一位
 太政大臣。娘徳子を高倉天皇の皇后とし、
 その子安徳天皇を位につけ、皇室の外戚
 として勢力を誇った。子弟はみな顕官と
 なり専横な振舞が多く、その勢力を除こ
 うとする企てもしばしば行われ、没後数
 年にして平氏の嫡流は滅亡。(1118~1181)




(六丁オモテ)  (保元の乱   合戦図) 
 為朝九石(きうせき)の弓をひく。矢に向ふ
 もの万に一生を得るなし。兄義朝。
 (わざ)に是に向ふ。其矢(かぶと)(いたゞき)
 (あた)る。義朝いまだ其技の(くは)
 からずと笑ふ。為朝応ずるに兄
 を重んじ。為に一矢を(しりぞく)るのミ。
 命を得ずんば我辞せずと。大に戦ふ。

  以下三紙をつらねて。保元交戦の
  図なり。人物の態。兵器の製。画
  史の精錬。看官(かんくわん)目をとゞめて。
  これを察すべし。
(五丁ウラ) (強弓で知られた為朝の勇姿)
*源為朝(みなもとのためとも)平安末期の武将。為義の八男。豪勇で射術
 に長じ、九州に勢力を張り、鎮西八郎と称。保元の乱には崇徳上皇方につ
 き、敗れて伊豆大島に流罪。のち、工藤茂光の討伐軍と戦って自殺。
 (1139~1170)

*源義朝(みなもとのよしとも)平安末期の武将。為義の長男。下野守。保元
 の乱に後白河天皇方に参加し、白河殿を陥れ、左馬頭となるが清盛と不和
 となり藤原信頼と結んで平治の乱を起し、敗れて尾張に逃れ、長田忠致(お
 さだただむね)に殺された。

*兜 底本は鑿
*保元の乱(ほうげんのらん)保元元年(1156年)七月に起った内乱。皇室内部
 では崇徳上皇と後白河天皇と、摂関家では藤原頼長と忠通との対立が激化
 し、崇徳・頼長側は源為義、後白河・忠通側は平清盛・源義朝の軍を主力と
 して戦ったが、崇徳側は敗れ、上皇は讃岐に流された。この乱は武士の政界
 進出の大きな契機となったといわれる。

*看官(かん‐かん) 読者。見る人。



  (七丁オモテ) (保元の乱   合戦図)                                   
   (六丁ウラ)


                                       

   (八丁オモテ) ((保元の乱   合戦図)  
    (七丁ウラ)




 
 (八丁ウラ~十二丁オモテ画像省略)
  (八丁ウラ)

  為朝進み(いで)て申しけるハ「(それ)兵ハ
神速(しんそく)を尊ぶと申候へバ、今晩(やみ)に乗じて
  皇居を襲ひ奉り風の(いきほひ)によりて火を放ち候ハヾ、義朝いか程
  勇武(ゆうぶ)なりとも(いで)て戦ふいとま候まじ。清盛ハもとより
不武(ふぶ)の者に
  候へば物の数にも候ハず。さて天皇の
御輿(ミこし)を催さるゝと見奉らバ
  
御輿(ミこし)かき共を我らことごとく射殺(いころ)し、天皇を(うバ)ひ奉らん事
  
(またゝ)く内に候」と申けるに、頼長公その(はかりこと)に従はれずして申されけるハ、「伝へ
  聞に明日(ミやうにち)南都(なんと)の衆徒一千余来り救ふ由なれば、此援兵を待て戦ふ
  に()かず」と(のたま)へり。為朝その御(ことバ)に服せざれども、頼長とかくに今晩の
  夜討(ようち)の議を聞入れられざりしかば、為朝の計略ハ空しくなりたり。しか
  るに義朝(がた)に又此よしを伝へ聞きて、
(すなハち)(そう)して(いハ)く、「新院の御方(ミかた)にハ明日
  南都の加勢(かせい)を待て来り戦ハんとし給ふよしに候へバ、今夜我軍
  (ひやう)とも院の宮を(かこ)ミて其不意を
(うち)候ハヾ勝利を得ん事必定に候」


  
(九丁オモテ)
  とて衆議(しうぎ)。「これを(しか)りと致し候」よし申上ければ、天皇「軍戦の事ハ武士
  に
(しか)ざれバともかくも計らふべき」よし(おほせ)られて(たゞち)にこれを許し給ひし
  かば、義朝・清盛・頼政等
(いくさ)を率ひて(にハか)に白川の宮を襲ひ奉れり。
  此時頼長大軍襲ひ来るよしを聞て大に恐れ
(はかりごと)の出づる所を
  知られねば
(まづ)戦士の心をとらんが為に、(にハか)に「為朝を以て院の郎従に
 
 補()し其余数輩(よすうはい)に官を(さづ)けん」と言はれければ、為朝(いかつ)て曰く「今
  日の
(つとめ)ハ敵を(ほろぼ)すを以て急とす、吾ハもと鎮西(ちんぜい)八郎にて事足りさ
  ぶろう」とて其
(くわん)を受ず。既に官軍襲ひ来りければ義朝ハ為義の
  守れる東の門に向ひ、清盛ハ為朝の守れる西河(にしかハら)の表門にぞ向ひ
  ける。此時清盛が
先鋒(さきて)伊藤景綱(かげつな)・伊藤五・伊藤六進で為朝が陣を攻るに、
  為朝これを射て伊藤六が胸板を貫き背を(とほ)して、伊藤五が(よろひ)の袖に
  其矢とまりければ、清盛が
士卒(しそつ)(をのゝ)き恐れて進まざるに、山田の
 
*「兵は神速を尊ぶ」
 三国志・ 魏書・郭嘉伝にある
 言葉。戦は何よりも迅速にする
 ことが必要である。

























*官軍襲ひ 
 底本は「官軍競い」





*清盛が士卒戦き 
 底本は「士卒慓き」



  (九丁ウラ)
 
惟行(これゆき)諸卒(しよそつ)(おそ)るゝを見て大に(のゝし)り馬を(おど)らして進む所を、
 為朝又これをも
射倒(いたを)しけれバ諸軍ますます(もゝ)(ふる)ハして進ミ得ず。清盛
 も大に恐れて楯を為朝に突く事
(あた)ハずして春日(かすが)の門に引退(ひきしりぞ)く。義朝
 此由を聞て曰く、「為朝いまだ
廿歳(はたち)にも足らざるに敵(いつハり)強勢(がうせい)なる」由を
 いひふらせるならんとて、
鎌田政清(かまだまさきよ)をしてこれを(うかゞ)ハしむ。鎌田百騎ばかり
 にして為朝の陣に向ひければ、為朝
(よバ)ハりて寄手(よせて)の名を問ふ。「鎌田政
 清」と名乗りもあへず弓を引て
()つけたるに、其()為朝の(おもて)に当りければ
 為朝大に怒り、
(たゞち)に門を(ひらひ)馳出(はせいで)けれバ須藤家季(いえすゑ)悪七(あくしち)別当(べつたう)(しう)
 若者共二十八騎大に
(よバ)ハりて為朝に従ふ。政清急に馬を返して逃
 走りけれバ、為朝これを追ふ事
(はなはだ)急也。政清やうやう逃れて義朝の
 陣に入り、大いに驚き
(たん)じて曰く、「為朝が弓勢(ゆんぜい)決して近づきがたく候。政
 清
坂東(ばんどう)にて数度(すど)戦場に臨ミしかど、いまだかくの如き人を見ず候」と申



 
 (十丁オモテ)
  けれバ、義朝
麾下(きか)下知(げぢ)して曰く「為朝ハ若かりし時より鎮西(ちんぜい)にありて
  船軍(ふないくさ)に馴たりといへども、いまだ騎馬の戦に(くハ)しからず、いざ騎馬にて挑ミ戦
  ひ急にこれを取
(ひし)ぐべし」とて軍兵共を指揮して進ませけれバ、長
  井
実盛(さねとも)・須藤季通(すえミち)諸軍に(さきがけ)して急に為朝が陣を攻む。こゝに於いて
  為朝が麾下(きか)の兵士多く討死し、或ハ手を(おふ)者少なからず。しかれども
  為朝ハいまだ戦ひの(いきほひ)屈せず、義朝の左右に出て
大鏃矢(おほとがりや)を以てこれを
  射るに、一つも
徒矢(あだや)なくして(あた)る者(めい)を落とさゞるハなかりけれバ、義朝
  の軍兵おのづから開き(なび)くに、為義・忠政等も又機に乗じて戦ふにぞ
  官軍しばしば利を失ひける。此時義朝
(いくさ)(あやふ)きを見て風上より火
  を放ちて戦の(せい)を助くるに、折しも西風はげしくして砂を吹き上げ火勢
  炎々(えんえん)として白川殿に移りければ院軍目を開く事(あた)ハずして()
  失ふに到る。官軍ハ(かつ)(のり)
(とき)をつくり、おめき叫びて攻撃(せめうち)













*麾下(き‐か)
 (大将の指図する旗の下の
 意から)(1)将軍直属の家来。
 旗下。


*挫ぐ ひしぐ。くじく。


*尖矢・利雁矢(とがりや)
 鏃(やじり)の一種。大形で
 先端を鋭くとがらせたもの。
 また、この鏃をつけ矢。


(十丁ウラ)
 
 けれバ院軍(いんぐん)大に
(つひ)えて(くづ)れ走る。此時右衛門大夫(えもんのたいふ)家弘(いえひろ)其子(そのこ)中宮(ちうぐう)侍長(じちやう)
  光弘馬に乗ながら白川殿の
春日表(かすがおもて)の小門より馳せ参り、「官軍雲霞(うんか)
  如くせめ来り候上、猛火既に此御所(ごしよ)を覆ひ候、今ハ(かな)はせ給ふべ
  からず、急ぎ何方(いづかた)へも御ひらき候べし」と申せば、只今
出来(いでき)る事のやうにて
  新院ハ東西を失ひて
御仰天(ごぎやうてん)あれバ、頼長ハ前後に迷ひ、「ただ(なんぢ)
  
(たび)(いのち)助けよ」とばかり(のたま)ひけり。其内に新院も御馬に召されたり
  けるが余りに
(あやふ)く見えさせ給へバ、蔵人(くらんど)信実(のぶざね)御馬の尻に乗て(いだ)きま
  いらせ、頼長公の馬の尻に
ハ四位(しいの)少将(のり)(いだ)きけり。かくて東の門より出
  給ひ北白川をさして(おち)させ給ふ所に、いづくよりか()たりけん流れ
  矢一筋来りて頼長の(くび)の骨に立つ。成隆(なりたか)急にこれを抜捨(ぬきすて)けれども
  血の走る事
(おびたゞ)しけれバ、(あふミ)をも踏得(ふミえ)ず。手綱(たづな)をも執得(とりえ)ずして、(まつ)
  (さかさま)に落ち給ふに成隆も続きて落馬したり。式部大輔(しきぶのたいふ)盛憲(もりのり)頼長の御


 
 (十一丁オモテ)
  
頸を膝にかきのせ、袖を顔におほひて泣居たり。
蔵人大夫(くらんどたいふ)経憲(つねのり)(はせ)
  来りて、抱きつきけれどもかひなし。延頼(のぶより)ハ早く松が崎の方へ落行きけるが
  
此体(このてい)を見るより甲冑(かつちう)(ぬぎ)すて、経憲と共に小家(こや)のありけるにかき入れて
  先
(きづ)の口を(きう)しけれども叶ハず、次第に弱り給ふ様也。矢目(やめ)を見れ
  バ
(のんど)の下より左の耳の上へぞ通りける。逆様に矢の立ちたるこそ不思
  議なれ、神矢なるかといふ者も有りけり。かくて血の更に 止まらざりけれバ
  白青の狩衣も
(あけ)に染まるばかり也。御目ハいまだ働けど、物をも更に
  宜ハず。さらば暫く休め奉らんと思へども、敵軍追来る由聞こえけれバ
  
経憲(つねのり)が車取りよせてかき乗せ参らせ、嵯峨の方へおもむき経憲(つねのり)墓所(むしよ)
  の住僧(ぢうそう)を尋ぬれども居ざりければ、荒れたる(ばう)に入れてその夜ハこゝに
  泊りけるが、(あく)る十一日のあした頼長はいまだ目の働き給へば、御父(ただ)
  (ざね)公に見せ奉らんと思へバ「奈良へ下し参らすべし」と、梅津の方へ(おもむ)



 (十一丁ウラ)
  
小舟を借て乗せ参らせ、上に柴など取覆ひ桂川を下りに落し参
  らするに、日暮けれバ其夜は賀茂河尻に留まりて、明る十三日に
木津(きづ)
  入給ふに、頼長御心地次第に弱りて今ハ限りと見え給へバ
(はゝそ)(もり)
  の(あたり)より図書(づしよの)允俊成(すけとしなり)を以て興福寺の禅定院(ぜんぢやういん)におハします父忠実公に
  此よし申させければ、すなはち「迎へ参らせたくハ思召(おぼしめ)されけれども
  余りなる御心憂さにやありけん、
(うぢ)の長者たる程の者の兵仗(ひやうぢやう)の前にかゝる
  事やハある、さやうの不運の者に対面せん事由なし、(おと)にもきかず目にも
  見ざらん方に行け」といふべしと(おほせ)せも(はて)ず涙にむせばれけり。俊成帰
  り参りて此よし申けれバ頼長公打うなづかせ給ひで、やがて御気色(けきし)
  変りけるが舌の先を食ひ切て吐出(はきいだ)されけり。さるにても如何し
  奉らんとて、
玄顕(げんけん)得業(どくごふ)といふ僧の輿(こし)にかき乗せて十四日に奈良へ入れ申
  けれども、我坊(わがばう)ハ寺中にて人目もつゝましとて近きあたりの小家(こいへ)に休め



  (十二オモテ)
  
奉りけるが、(つひ)に其の日の
(うま)の刻ばかりに事切れさせ給ひけれバ、其夜(はん)
  若野(にやの)五三昧(ごさんまい)に納め奉る。蔵人大夫(くらんどのたいふ)経憲最期の宮仕へ懇ろに
  仕りて、すなはち出家して
忠実(ただざね)入道殿の渡り給ふ禅定院に
  参り、ありつる
御行跡(ごかうせき)とも(くハ)しく語り申ければ北政所(きたのまんどころ)公達(きんだち)皆泣悲
  しみ給ふ事限りなし。忠実入道殿(たゞざねにうだう)ハ御手を顔に押当てゝ、御涙
  せきあへ給ハぬを見奉るもあはれ也。さて新院ハ為義(ためよし)を始めとして、
  家弘・光弘・武者所(むしやどころ)
季能(すえよし)等を御供にて如意山へ入せ給ふに、山路
  険しくて難所多ければ御馬を止めて、御
歩行(かち)にてぞ登らせ給ひ
  ける。御(とも)の人々御手を引、御腰を押奉りけれども、ならハせ給ハぬ御
  ありきなれば、御足(おんあし)より血流れて(あゆ)ミ煩ひ給ひて絶え入らせ
  給ひけり。人々並居(なミい)て守り奉りけるに、「早御目くれけるにや。人や
  ある」と召されければ、皆声々に名乗けるに。「水やある」と召されければ、(われ)

*兵仗(ひょうじょう)
 昔、上皇・摂関・大臣など、
 身分の高い人の外出のとき
 護衛にあたった武官。随身。







*般若野 
般若寺近くの般若
 山のほとり。


*五三昧(ご‐さんまい)
 平安末期に著名だった畿内
 の五ヵ所の火葬場・墓場。




  (十三丁オモテ)
 
 (十二丁ウラ)
 先王(せんわう)の道を
 学ぶは。仁義(じんぎ)
 進め。国家を(やす)んぜん
 為なり。左府(さふ)頼長公。
 博学多才(はくがくたさい)といへども。
 君を(たすけ)。自ら慎まず。
 遂に悪逆不道(あくぎやくぶだう)
 おち入り。(その)死を
 よくせず。悲夫(かなしいかな)
 匹夫(ひつふ)にも
 およばざる
 ことを。




  
(十三丁ウラ~十六丁ウラ 画像省略)

   (十三ウラ)

  我もと求むれどもなかりけり。しかるに法師の水(がめ)を持ちて南の方へ通る
  を、家弘乞ひ受けて参らせけり。是に少し御気色(ミけしき)直りて見え
  させ給へば、「おのおの官軍(くわんぐん)定めて追来り候ハん。いかにも急がせ給へ」と
  申せば、「武士共は皆いづちへも(おち)行べし。まろハいかにも適はねバ先こゝにて
  休むべし。もし
(つハもの)ども追来らば手を合せ(ごう)を乞ひてなりとも命ばかりハ
  助かりなん」と(おは)せられけれど、判官を始めとして「おのおの命を君に捧げ
  ぬる上ハ、いづ方へか(まか)り候べき。東国などへひらかせ候ハヾ、いづくまでも
  御
(とも)仕り御行末を見果て参らせん」と申しけれバ、「まろもさこそは
  思ひしかど今ハ何とも(かな)ひ難し。とくとく退散して命を助かるべし。おのおの
  かくてあらバ命を(かたき)に奪ハれなん」と再三(しひ)て仰られければ、此上ハ却りて
  恐れありとて、武士共(よろひ)の袖を濡らしながら皆散り散りになり て、為
  義・忠政は三井寺の(かた)へぞ落行(おちゆき)ける。家弘・光弘ばかり残り留りて谷の


  (十四丁オモテ)
  
方へ引下ろし参らせて、御上に(しば)打かけ奉り、日の暮るゝをぞ待ちにける。新院
   御出家ありたき由仰せられけれども、「此山中にては叶ひ難き」よし申上げ、
  「日暮ければ家弘
父子(ふし)して肩に引かけ参らせて、法勝寺の北を過ぎ東光
  寺の辺にて
年来(としごろ)知りたる家に行きて、輿(こし)を借りて乗せ奉りいづくへ御供
  仕るべき」と申ければ、「阿波の局の(もと)へ」と仰せありしかば家弘父子ならハぬ
  わざに御輿を()きて、二条を西へ大宮まで入れ奉れども門戸を
(とぢ)
  人
(おと)もなし。「さらば左京大夫が許へ」と仰せらるれバ、又大宮を下りに三
  条坊門まで()き奉れバ、教長(のりなが)卿はこの
(あかつき)白川殿の(けぶり)の中を迷ひ出給ひ
  て後は其行方(ゆくへ)を知らざりければ、残り留まる者共も皆逃げ失せて人なし。
  「さらば
少輔(>すけ)内侍(ないし)が許へ」とて入れ参らせんとすれども、それも昨日今日
  の世の中なれバ、諸事に(むずか)しくや有けん。たゝけども音もせず。かゝりけれバ
  今ハ御身を寄せらるべき家もなきに光弘等も習ハぬ(わざ)(よも)




  (十四丁ウラ)
 
 
(すがら)御輿(ミこし)(つかま)り、明なば捕へからめられて、いかなる憂き目をか見ん事と
  心細く思へども、山中にで水
(きこ)し召しつるばかりなれバ、とかくして知足院(ちそくいん)
  方へ
御幸(みゆき)なし奉り、怪しげなる僧房に入れ参らせて、重湯(おもゆ)などをぞ
  すゝめ奉りける。新院これにて
御髪(おぐし)下ろさせ給ひけれバ、家弘も(もとゞり)
  てけり。「かくてハ
(つひ)()しかりなん。いづくへか渡御(とぎよ)あるべき」と申ければ、「仁和寺(にんわじ)
  こそ()かめ。それもよも入れられじ。たゞ押して輿(こし)()き入れよ」と仰せられけ
  れば御室へぞなし奉る。此仁和寺の門主守覚(しゆかく)法親王ハ鳥羽院第五の
  宮にて新院と
御連枝(ごれんし)なりけるが、折しも故院の御仏事の為に鳥羽
  殿へ御出ありて御留守(おんるす)の程にてぞ有ける。かくて家弘ハこれより御
  いとま申て北山(きたやま)の方へ(まか)りける道にて、修行者に行逢ひしかばこれを
  語らひ、
(かい)(さづ)かりて出家の(かたち)にぞなりける。そもそも此度の(らん)ハ七月
  十一日寅の刻に合戦(かつせん)始まり、辰の時に白川殿敗れて新院も頼長


 
 (十五丁オモテ)
   
公も行方(ゆきがた)知らず(おち)させ給ひけれバ、(ひつじ)の刻に義朝・清盛内裏(だいり)へ帰り参
  りてこの由を
奏聞(そうもん)す。蔵人右少弁(うせうべん)資長(すけなが)を以て、「朝敵追討早速にその功を
  いたす」由
叡感(えいかん)(ねんご)ろ也。すなはち周防(すはうの)判官(はんぐわん)承りて三条烏丸新院の
  御所へ
馳向(はせむか)ひて焼き払ひ、頼長公の壬生(みぶ)の亭をバ助経(すけつね)判官承り
  
発向(はつかう)して火をかけり。同じく謀反人の宿所(しゆくしよ)とも十二箇所おのおの検非違(けびい)
  使()とも行向ひて追捕()し焼き払ふ。こゝに於て京中ハ鎮まりたれども
  
南都(なんと)(かた)(さま)いまだ鎮まらざれば、狼藉もやあるとて(さる)の刻に宇治
  橋の守護の為に周防判官
季実(すゑざね)を差遣ハさる。さて同十一日夜に入りて、
  関白忠通公もとの如く
(うじ)の長者になり給へり。去ぬる久安の頃左大臣に
  なり給ひしが、今又もとに返り給へる也。扨
()の刻ばかりに及て不次(ふじ)の勧
  賞行はれ、
安芸(あきの)(かみ)清盛を播磨守(はりまのかみ)に任じ、下野守(しもつけのかみ)義朝を左馬権頭(さまごんのかみ)
  になされけるに、義朝申けるは「此(くわん)は先祖多田満仲(たゞのまんぢう)法師始めて賜り







*寅の刻  午前四時頃

*辰の刻  午前八時頃


*未の刻  午後二時頃

*叡感 天子が感嘆なさる
 こと。天子のおほめ。



*申の刻 午後四時ごろ

*子の刻 真夜中の十
  二時頃
*多田満仲=源満仲平安
 中期の武将。経基の長子。
 鎮守府将軍。武略に富み、
 摂津多田に住して多田氏
 を称し、家子郎党を養い、
 清和源氏の基礎を固めた。
 (―~997)



  (十五丁ウラ)
  
  しかば、其跡
(かう)バしく候へども、(もと)左馬助(さまのすけ)に候。今権頭(ごんのかみ)に任ぜらるゝ条、莫
  大の勲功(くんこう)にしてハ更に面目(めんぼく)とも覚え候ハず。朝敵を討つ者にハ半国を
  賜ハり其(こう)世々(よゝ)に絶ずとこそ(うけたまハ)れ。其上今度ハ父を背き兄弟を捨て
  一身
御方(ミかた)に参りて合戦を致す事、自余(じよ)(ともがら)に超え(はんべ)り。是勅命の
  重きによりて
(そむ)き難き父に向ひて弓を引矢(ひきや)を放つ。全く希代(きだい)の珍
  事に侍り。しかれども身の不義を忘れ、
君命(くんめい)に随ふ上ハ他に(すぐ)るゝ恩賞
  何ぞなからんや」と申けれバ、「此条尤道理也」とて
中御門(なかみかど)中納言家成(いへなり)卿の子息
  
高李(たかすゑ)朝臣左馬頭(さまのかみ)たりしを左京大夫に(うつ)されて義朝を左馬頭(さまのかみ)にぞ
  なされける。さる程に新院ハ
御室(おもろ)を頼ミ参らせて入せ給ひしかども、
  
門跡(もんぜき)にハ置申されず。寛蠕ァくわんへん)法務が(ばう)へぞ入参(いれまい)らせられける。御室(おむろ)ハ五
  の宮にて渡らせ給へバ、
主上(しゆじやう)にも仙洞(せんとう)にも御兄にておハしましけり。此よし
  五の宮より内裏(だいり)へ申されたりけれバ、佐渡の
式部大輔(しきぶのたいふ)重成(しげなり)を参らせ


(十六丁オモテ)
 られて新院を守護し奉られけり。あまりの()心憂(こゝろう)さにかくぞ思召し
  続けさせ給ふ。

    思ひきや身をうき雲となし果てゝ あらしの風に任すべしとは

    憂きことのまどろむ程ハ忘られて ()むれバ夢の心地こそすれ

  かくて近仕(きんし)の人々或ハ遠国(をんごく)へ落行き、或ひハ深山に逃隠れて其行方を
  知らざれば、
(はかりごと)にて少納言入道信西(しんぜい)陣頭に於いて、「其人(そのひとびと)ハ其国彼人は
  (かの)国と配所を定めらるゝ」由披露せしめければ、「さてハ命ばかりハ助
  からん」とや思ひけん。皆出家の(かたち)になりて此所彼所(ここかしこ)より出来(いでく)るをそれぞれ
  に刑に(おこな)ハれけり。さて為義も忠政もおのおの出家の姿となりたるを、
  尋ね出して
(ちう)せらる。「為義法師が首を(はぬ)べき」よし左馬頭(さまのかみ)義朝に(せん)
  ()せられければ、
(なだ)め置べきの旨やうやうに両度迄奏聞(そうもん)せられけれ
  ども、主上
逆鱗(げきりん)ありて「清盛既に伯父を(ちう)す。何ぞ緩怠(くわんたい)せしめん。


















*入道信西=藤原通憲
(ふじわらのみちのり)平安後期
 の廷臣。官は少納言にとどまった
 が、博学で著名。剃髪して信西
 (しんぜい)と称し、後白河天皇の
 近臣として活躍。「本朝世紀」
 「法曹類林」「日本紀注」など著
 書が多い。平治の乱に自殺。
  (―~1159)



*うきことのまとろむほとはわすられて
さむれは夢の心ちこそすれ 
千載集 巻17 雑中1125 読人不知





*誅(ちゅう) 罪をせめること。
 罪ある者を殺すこと。

*緩怠(かん‐たい)怠ること。
 遅滞。



  (十六丁ウラ)
  
(をひ)(なほ)子の如しと云へり。伯父(あに)父に異ならんや。(すミやか)に誅すべし。もし
  違背(いはい)せしめば清盛以下(いげ)の武士に命じて誅せらるべき」由。勅諚(ちよくぢやう)重かりし
  かば、義朝今ハ力なく涙を押へて鎌田次郎に申されけるハ、「綸言(りんげん)かくの如し。
  父を(うた)バ五逆罪を侵すべし。君に背かば不忠の者となるべし。如何すべき」と
  (あり)しかば正清(かしこ)まりて申すにハ「恐れ入り候へども愚かなる御諚(ごぢやう)に候もの
  かな。私の合戦(かつせん)にて討ち給ハんこそ其の罪も候ハんずれ。これハ朝敵となり
  給ふなれバ(つひ)(のが)るまじき御命也。たとひ御承りにて候ハずとも時日(じじつ)
  めぐらすべき御命ならぬにとりてハ、御方(みかた)(さぶら)ハせ給ひながら、人手に
  かけて御覧候ハんより、同じくハ御()にかけ参らせられて(のち)御孝養(ごけうやう)
  をこそ、よくよくせさせ給ハんずれ」と申せば、「さらば汝計(なんぢはか)らへ」とて泣く泣く
  内へ入られけり。かくて為義ハ鎌田次郎介錯(かいしゃく)して首実検の後義朝に
  賜ハりければ、円覚寺に納め墓を建て卒都婆(そとば)などいとなミて孝養(けうやう)


 
 (十七丁オモテ)
  
をぞいたされける。されど義朝まことに父を助けんと思ハんにハは、などか其
  道なかるべき。今度の恩給に申
(かゆ)るとも我が身を(すつ)るとも、いかでかこれを
  救ハざらん。勅命に従ふといへども実ハ義に背ける故にや。
無双(ぶさう)の大忠な
  りしかど異なる
勧賞(けんじやう)もなく、その上いく程もなくして其臣長田が
  為に身を滅ぼしけるこそあさましけれ。かくて保元二年七月廿一日、蔵人左
  
少弁(せうべん)資長(すけなが)綸言(りんげん)を承りて仁和寺へ参り、(ミやう)廿三日新院を讃岐(さぬき)
  国へ移し奉るべき由を奏聞(そうもん)す。院も都を出でさせ給ふべき由ハ内々(ないない)
  聞召(きこしめ)しけれども、今日明日とハ思召さざりし所に正しく勅使参
  りて事定まりしかば御心細く思召(おぼしめ)さるゝに、新院の一の宮を父のお
  ハします程いかやうにもなし奉れと、
華蔵院(げざういん)僧正寛暁(くわんげう)が坊へ渡し
  奉る。僧正しきりに
()し申されけれども、勅諚(ちよくぢやう)背き難くて請取奉
  り御出家なさせ奉れり。翌廿三日いまだ夜明けざる程に仁和寺(にんわじ)を出























*仁和寺
 総本山仁和寺公式ページ







  (十八丁オモテ)(崇徳院(讃岐の院) 怒髪天を衝くの図)
  保元(ほうげん)(のち)しばしば。
  兵乱(ひやうらん)やまず。世以(よもつ)
  (てい)(たゝり)とす。大
  乗経(じやうきやう)
  誓願(せいくわん)
  むなし
  からざる(ところ)か。
  崇徳(すとく)(がう)
  こゝに おこれり。

  (十七丁ウラ)
*『保元物語』によると、崇徳は讃岐での軟禁生活の中で仏教に
 深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・
 涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して(血で書
 いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反
 省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝
 廷に差し出したところ、後白河は「呪詛が込められているのでは
 ないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに
 激しく怒った崇徳は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁と
 なり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向
 (えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のよう
 な姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。
 ウィキペディア
崇徳天皇



  (十八丁ウラ~二十二ウラ画像省略)
  
(十八丁ウラ)
  
させ給ふ。
美濃前司(みのゝぜんし)保成(やすなり)朝臣の車を召さる。佐渡式部大輔(たいふ)重成が郎
  等御車差しよせて、
(まづ)女房達三人を御車に乗せ、其後新院御車に召
  されければ女房達声を等しくして泣かなしめり。まことに日頃の
御幸(みゆき)
  にハ(ひさし)の車を庁官などによせしかば、公卿・殿上人庭上に下り立ち御随身(ミずいじん)
  左右に(つらな)り。官人・番長前後に従ひしに、これハ怪しげなる男(あるひ)
  甲冑を
(よろ)ひたる(つはもの)共なれバ、目もくれ心も惑ひて泣悲しむもことわり
  なり。夜もほのぼのと明行けば鳥羽の南の門へ御車をやり出すに、国司
(すえ)
  (より)朝臣(あそん)御船並に武士両人をまうけて草津にて御船に乗せ奉りけるが、
  勅諚(ちよくぢやう)なればにや、御(ふね)に召されて後御屋形の戸には外より(ぢやう)をぞお
  ろしける。これを見て御供に従ふ者ハいふに及ばず、あやしの
(しづ)()までも
  袖をしぼらぬハなかりけり。程なく讃岐(さぬき)に着かせ給ひしかど国司いまだ
  御所を造り出さゞりけれバ、当国の在庁(ざいちやう)
散位(さんみ)高季(たかすゑ)が造りたる松山の


 
(十九丁オモテ)
 
 
一宇(いちう)の堂に入れ参らせけれバ、僅かに宮女(きうじよ)三人宮仕へしける。さて程
  なく国司真島(まじま)といふ所に御所を造りけれバ、それに移らせおハしましけるが
  又
志度(しど)(つゞミ)が岡といふ所に住ませ給へり。四方の築垣(ついがき)たゞ口ひとつ明けて日に
  三度の
供御(くご)参らする外ハ事問ひ奉る人もなく、つれづれと明し暮ら
  させ給ふ。御
(なげ)きの積りにや。御悩(ごなう)の事有ければ、関白殿へよきやうに
  申させ給へと(おおせ)有けれども御披露もなかりければ、今ハ思し(めし)きらせ
  給ひて三年の間に五部の大乗経(だいじやうきやう)を遊バし集めて、「かゝる遠国(をんごく)に此
  経を捨置かん事も心憂(こゝろうし)し。御経ばかりハ都近き
八幡(やハた)・鳥羽(へん)まで入れ
  参らせばや」と、御室(おむろ)守覚法親王へ
彼経(かのきやう)に御(ふミ)を添へて申させ給ふ。其
  御(ふミ)の奥に、

     
浜千鳥あとハ都へ通へども 身ハ松やまに()
をのミぞ鳴く

  とよミ給ひて書き添へさせ給ひしかば、御室より此御ふミを以て関白

*散位(さん‐に) 律令制で、
 位階だけあって官職について
 いない者。
 蔭位(おんい)により官位が
 あって、役職のない者、また
 は職を辞した者などの称。
 散官。散事。



  
*一宇(いち‐う)(「宇」は家
 の意)一棟(ひとむね)の家。一軒。




   (十九丁ウラ)
  
忠通公へ(おほせ)られける故、忠通公又主上(しゆじやう)へ申上られければ主上少納言入道信
  西を召て
仰合(おほせあハ)さるゝに、「信西。さる事いかでか候べき」と大いに(いさ)め申けれバ御ゆ
  るしなくて、
(かの)御経(おんきやう)をすなはち返し遣さる。御室(おむろ)よりも力及ばせら
  れぬ由御返事ありければ、新院此よし聞召すより大に(いか)らせ給ひ、
  「今ハ
今生(こんじやう)の事を思ひ(すて)て、後生菩提(ごしやうぼだい)の為にとて書奉る経の置所をだに
  許されねバ、今生の
(うらミ)のミにあらず。後生までの(てき)にこそ」と仰せられ、御
  舌の先を食ひ切り給ひ其の血を以て御経の軸の
(もと)ごとに御誓状(ごセいじやう)をぞ
  遊バしける。其文書写(しょしゃ)し奉る所の五部の大乗経を以て三悪道に
(なげうち)
  籠畢(こめおハん)ぬ、此大功徳の力に依て日本国(につぽんごく)の大魔王となりて天下を乱り
  国家を(なやま)さん、
大乗甚深(だいじやうじんしん)回向(ゑかう)何の願か成就せざらん、諸仏証知証誠(しようちしようしやう)
  し給へ顕仁(あきひと)(つゝしん)(まう)す」と遊バし、讃岐の海の千尋(ちひろ)の底に沈め給へり。
  其
(のち)ハ御爪も切らせ給ハず、御(ぐし)も剃らせ給ハず。生きながら天狗(てんぐ)の形


 
 (二十丁オモテ)
 
 に現れておハしますこそ恐ろしけれ。其の頃都に小川の
侍従(しじう)入道蓮如(れんによ)とて、
  世を捨てたる
上人(しやうにん)あり。昔ハ陪従(べいじう)にて御神楽(みかぐら)(ついで)などにハ、(かす)かに見参(けんざん)に入り
  参らせけるばかりの人なりれバ、さしも(なげ)き思ひ奉るべきにもあらねど、大
  方情深き人なりければ只一人ミづから
(おひ)をかけて都を出、(はる)かに讃岐
  国へ下りて御所のわたりによそながら(たち)回り見けるに、目も当てられぬ
  ()ありさま也。「いかにもして内に入」と()く申し入ればやと、
(こゝろざし)深く伺ひけれど
  (まも)り奉る武士はげしくとがめけれバ、空しく其の日も暮れにけり。折ふし月
  隈無かりければ蓮如心を澄まして、笛を吹きて終夜(よもすがら)御所を廻
  りけるに、(あかつき)方に黒ばみたる
水干(すいかん)(はかま)着たる人、内より出でたり。便りを喜びて
  相共(あひとも)に内に入りてみるに、柴の御所の様などまことにいぶせき御住居也。
  蓮如涙に(むせ)びながら、有つる人してかくと申入れたりしかば、院ハ「さしも
  恋しき(ミやこ)の人なる上、昔御覧せし者なれバ、やがて御前へも召れたくハ















*許されねば 原文は「宥されねば」






*蓮如(れんにょ)室町時代、
 浄土真宗中興の祖。諱は兼
 寿。本願寺八世。比叡山衆
 徒の襲撃に遭い、京都東山
 大谷を出て1471年(文明三)
 越前吉崎に赴き、北陸地方
 を教化。さらに山科・石山
 に本願寺を建立、本願寺を
 真宗を代表する強大な宗門
 に成長させた。「正信偈(し
 ようしんげ)大意」「御文
 (おふみ)」「領解文」など
 布教のための著が多い。
 諡号(しごう)は慧灯大師。
 (1415~1499)

*陪従 原文は「倍従」。




    (二十丁ウラ)
  
思召しけれど問ふにつらさも思ひ出でぬべし。又かゝるあさましき
(かたち)を見
  えん事もつゝましければ中々よしなし」とて、たゞ御涙をのミぞ流させ給
  ひける。(かの)人、院の
()気色かくかくと申ければ、蓮如「げにも」とて一首を(ゑい)
  
見参(けんざん)に入れ給へとて、

   
朝倉や
木丸殿(きのまろどの)()りながら 君に知られで帰る悲しさ

  院御返歌あり、

   
朝倉やたゞ(いたづら)らに(かへ)すにも釣りする(あま)()をのみぞなく

  蓮如いと悲しく覚へて、これを
(おひ)に入れて泣く泣く都へぞ帰りける。其後(そのゝち)
  寛二年八月廿四日、御年四十六にて讃岐の
(しど)にて()ひに隠れさせ給ひ
  けり。讃岐へ御
下向(げかう)(のち)九年にぞなり給ひける。白峰といふ山寺に送り奉
  り火葬になし奉りけるが、
御骨(おんこつ)ハ必ず高野(こうや)へ送れとの御遺言あり
  けるとかや。其
(のち)仁安(にんあん)二年の冬の頃西行法師諸国修行のついでに、讃


 
  (二十一丁オモテ)
  
岐国に入て松山の津といふ所に行ぬ。こゝハ新院の流されて渡らせ給ひし
  所ぞかしと思ひ出し奉り、昔恋しく尋ね参らせけれども其御跡(ミあと)もなか
  りければ、あはれに(おぼ)え奉りて、

     松山の波に流れてこし舟の やがて空しくなりにけるかな

  と詠みて、
支度(しど)といふ山寺に(うつ)らせ給ひても年久しくなりにけれバ御
  跡なきもことわりと思して「
御墓(ミはか)ハいづくぞ」と問ひければ「白峰といふ山
  寺にあり」と聞きて尋ね参りたりけるに、あやしの
下臈(げらう)の墓よりも(なほ)
  茂くして其寺ハ
住持(ぢうぢ)の僧もなくていと物淋しかりけれバ、

    よしや君むかしの玉の
(ゆか)
とても かゝらん後ハ何にかはせん

  と詠みて七箇日逗留して、花を手向(たむけ)香をたき読経念仏して(しやう)
  (りやう)
決定(けつぢやう)往生極楽と回向(えかう)し奉りて立けるが、御廟(ごべう)の傍らに松の有ける
  もとを削りてなからん時の形見にもとて、一首の歌をぞ(かき)つけける。



*貌 底本は「
*朝倉宮 朝倉橘広庭宮(あさくらの
 たちばなのひろにわのみや)の略称。
 斉明天皇の行宮(あんぐう)。661年
 百済救援のため滞在中、同年天皇
 ここに没した。伝承地は福岡県朝
 倉市山田、一説に同町須川。木丸
 殿(きのまろどの)。朝倉行宮。

*木の丸殿 丸木のままで削らずに
 造った粗末な御殿。特に筑前国朝
 倉郡にあった斉明天皇の行宮(あん
 ぐう)をいう。黒木の殿。きのまる
 どの。
朝倉や木の丸殿に我がをれば
 名のりをしつつ 行くは誰が子ぞ
(新古今集 巻十七 雑中 1689
 天智天皇)
*蜑(あま)漁夫。海女。海士。

*香川県さぬき市志度。

*白峰寺 四国88ケ所 第81番札所霊場
 (八十一番)崇徳天皇菩提所 綾松山
 
白峯寺(白峰寺)公式ウェブサイト
 
頓証寺殿

*西行(さいぎょう)平安末・鎌倉初期
 の歌僧。俗名、佐藤義清(のりきよ)。
 法名、円位。鳥羽上皇に仕えて北面の
 武士。二三歳の時、無常を感じて僧と
 なり、高野山、晩年は伊勢を本拠に、
 陸奥・四国にも旅し、河内国の弘川寺
 で没。述懐歌にすぐれ、新古今集には
 九四首の最多歌数採録。家集「山家
 (さんか)集」。(1118~1190)


*まつ山のなみになかれてこしふねの
 やかてむなしく成りにけるかな
 山家集 1353 西行





*よしやきみむかしのたまのゆかとても
 かからん後は何にかはせん 
 山家集 1355 西行




  二十一丁ウラ)

     (ひさ)()我後(わがのち)の世をとへよ松 あと偲ぶべき人もなき身ぞ

   かく書き記して出けり。後の世に
(ひさ)の松とて好事(かうず)の人々の歌詠ミなどするハ此
  松の事也。新院讃岐にて崩御(ほうぎよ)ありし後ハ讃岐院(さぬきのいん)と申奉りしが、治承元年
  六月廿九日追号ありて崇徳院(すとくいん)とぞ申ける。かやうに
御霊(ごりやう)を慰め奉
  られけれど
(なほ)(いきどほり)りの(さん)せざりけるにや。同じき三年十一月十四日に
  清盛
朝家(てうか)を恨ミ奉り、太上天皇(だじやうてんわう)を鳥羽の離宮に押込め奉り、太政
  大臣
以下(いげ)四十三人の官職を(とゞ)め関白殿を太宰権帥(だざいのごんのそつ)に移す。是たゞ事に
  あらず崇徳院の
御祟(おんたゝり)りなりと申けれバ、猶も御霊(ごりやう)をなだめ奉られん
  とて、
元暦(げんりやく)元年正月後白河帝の勅によりて春日の末北河原の東に御
  廟を造営せらる。此所ハ
大炊殿(おほいどの)の跡にして先年の戦場也。今年正月の
  頃より
民部卿(みんぶのきやう)成範(なりのり)卿・式部権少輔(しきぶごんのせう)範季(のりすゑ)両人を奉行として造営せられ
  けるが、成範卿ハ故少納言入道信西が子息也。信西保元の
(いくさ)の時御方(みかた)にて


 
 (二十二丁オモテ)
  
専ら事を行ひ、新院を(かたふ)け奉りし者なりけれバ、その子たる成範(なりのり)造営の
  奉行(ぶぎやう)神慮(しんりよ)はゞかり有とて、成範を改めて
権大納言(ごんだいなごん)兼雅卿奉行せられけり。
  かくて程なく御廟成就しければ、同年四月十五日崇徳院御遷宮の
  儀式あり法皇
御宸筆(ごしんひつ)告文(かうぶん)を書かせ給ひ、権大納言兼雅卿・紀伊守
  
範宗(のりむね)勅使を勤む。御廟(ごべう)御正体(みしやうたい)には御鏡(みかゝみ)を用ひらる。此の御鏡ハ先に御
  
遺物(ゆいもつ)兵衛局(ひやうゑのつぼね)御尋(おたづね)ありけるに取出て奉りける八角の大鏡にて、もと
  より金銅にて普賢菩薩(ふげんぼさつ)の像を
()つけたる也。それを此度(このたび)箱に納め
  奉られぬ。さて遷宮(せんぐう)の儀式ハ(まづ)権大納言兼雅卿(かねまさきやう)拝殿に着て再拝
(おは)
  り、法皇の告文(かうぶん)(ひら)かれて又再拝あり。俗別(ぞくべつ)当神祇(たいじんぎ)大副(たいふ)卜部兼友(うらべかねともの)
  臣に其告文を
(くだ)し給ふ。兼友告文を祝し(おハ)りて前庭(ぜんてい)にてこれを焼ぬ。
  さて故
教長(のりなが)卿の子玄長(はるなが)を以て別当とし、故西行法師の子慶縁(けいゑん)を以て
  権別当(ごんべつたう)とし給へり。
今日(こんにち)遷宮のさま事に(おい)て厳重なりけるとぞ。




*ひさにへてわか後のよをとへよまつ
 跡しのふへき人もなきみそ
 山家集1358 西行



*朝家(ちょう‐か) 皇室。

*大宰権帥(だざい‐の‐ごんのそつ)
 大宰帥の権官(ごんかん)。納言(なごん)
 以上の者を以て任じ、中央高官の左遷の
 目的で任命されたほか、親王が帥に任ぜ
 られた場合、代って府務を統督した。



  (二十三丁オモテ)(蓮如上人讃岐仮御所を訪ねる図)
 ☆
 さゝげ。
 なぐさめ
 奉りしは。
 
かの魚腹(ぎよふく)
 (しよ)をかくして(うり)
 
桜樹(さくらぎ)に詩を題して
 去るの。
   
忠臣(ちうしん)にも
   
()せんか。


(二十二丁ウラ)
  蓮如(れんによ)入道(にうとう)(こゝろざし)ふかく。
  
墨染(すミぞめ)(ころも)雨露(うろ)
  に(うるほ)し、はるかの
  
波濤(はとう)(しの)ぎ。(かり)
  の御所(ごしよ)に来り。
  
守衛(まもり)の武士の   
  ゆるさざるを
  
(なほ)その
  ほとりを   立さらず。 
  (つひ)に其
  (おと)づれを得て。
  和歌を 
 ☆ 左へ
*『太平記』巻4「呉越軍の事」  囚われの越王を励ますため、
 忠臣范蠡(はんれい)は魚売りに変装し、書を魚腹に収めて獄中
 に投げ入れた〔*『三国伝記』巻6-11に類話〕。

*日本の南北朝時代、南朝方の武士児島高徳は、隠岐に流される途
 中の後醍醐天皇を救出しようとしたが失敗し、山中の桜の木に
 「天莫空勾践 時非無范蠡」 (天(てん)勾践(こうせん)を空
 (むな)しゅうすること莫(なか)れ、時に范蠡(はんれい)無きにし
 も非(あら)ず)意味「必ずや越王勾践のときの范蠡のような忠臣
 が現れます。あきらめないでください」の十字詩を彫りつけた。




   (二十三丁ウラ)
  
又此御廟(ごべう)の東の方に、故宇治左大臣頼長公の(べう)をも建てさせ給へり。それ
  より後建久四年に勅ありて毎年八月に勅使を遣ハされて、其
御霊(ごりやう)
  を祭らしめ給ひ。粟田(あわた)の宮と号し給へり。今年文化十年崇徳院
  六百五十回の聖忌に当らせ給ふとて、白峰の御廟に
縉紳家(しんしんけ)より
  和歌御奉納の事ある由、
讃岐人(さぬきびと)語れり。
  (以下二十四丁~五十四丁ウラまで 本文・裏表紙画像と翻刻文省略)

 底本は蠎ソびょう。
 みたまや。

縉紳(しん‐しん)大帯に
 笏をさしはさむ。朝服。官位
 の高い人。




   


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