2020/7/7 改訂

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絵本 江戸土産(えほん えどみやげ) 一册

西村重長画 京都菊屋安兵

[初版 宝暦三年(1753年)]


原データ 東北大学付属図書館狩野文庫画像データベース


                                

 

   
初版は宝暦3年(1753)に江戸奥村喜兵衛から三巻本として刊行されたものであるが、
  この絵本はその後の再版。両国橋の納涼、三囲(みめぐり)の春色、隅田川の青柳、二本堤の春草、
  
吉原、浅草、上野などの江戸名所を絵にしたもので、江戸土産として当時かなり評判
  を呼んだという。今日の観光案内書である。
墨摺絵本。

  絵師
西村重長(にしむらしげなが)(1697~1756)は別称仙花堂(せんかどう)百寿(ひゃくじゅ)、仙花堂百寿ともいう。

 
 翻刻に際しては古文書研究家椿太平氏・福岡県の松尾守也氏・船橋の渡辺氏にご協力を頂きました。
  厚く御礼申し上げます。
             
       <見開き36枚全て掲載>

  

(1)
  絵本江戸土産 全



     翻刻文

(2)
絵本江戸みやげ序

1武蔵野の月も。家より家に入る
風情。繁花日々に
(さかん)なり。四季折々の
壮観。中にも春は上野飛鳥の
花盛(はなさかり)
三囲(ミめぐり)隅田の。つミ草野遊。夏は両国
橋に。
(しよ)(しのぎ)。秋は愛宕(あたご)の木々の月。
冬は遊里の
温酒(あたゝめさけ)に。寒さを忘れ。折に
ふれ時により。其風景を絵に写して

1平安時代から江戸時代のはじめ頃にかけて、都人の武蔵野の文学的絵画的イメージと言えば、一面がススキの原というのが武蔵野のイメージであった。
 源通方(1189-1238)が、建保三年(1215)


  武蔵野は月の入るべき嶺もなし
     尾花が末にかゝる白雲 

 (続古今和歌集)と詠った。江戸時代には

  武蔵野は月の入るべき山もなし
    草より出でて草にこそ入れ 

 という古歌が人々に知れ渡った。
 
   (現代語訳)     序
  武蔵野は(土地が平坦で人家が密集しているので)月も屋並み
  から出て屋並に入る風情。大勢の人で賑わい日々盛んである。
  四季折々の壮観。中でも春は上野飛鳥(山)の花盛り。
三囲(みめぐり)
  隅田、摘み草野遊び。夏は両国橋で暑さをしのぎ、秋は
愛宕(あたご)
  の木々の間から見る月。冬は遊里の温め酒に寒さを忘れ、折り
  に触れて、時により、その風景を絵に写して、


(3-1)
(まこと)に。他の国へ遣ハすにハ。(よき)1家づとし。題し
て。画本(えほん)江戸土産としかいふ而已(のみ)
      
 玉芝藤人題
   画工  重長
   彫工   又市

 続江戸みやげ
     全部
     三冊 出来

(3-2) 両国橋の納涼
 
 うんどん(うどん)  二六新そば   (そば)きりや  やき肴?
   伊丹(酒)  生諸(白)  はこつけ すし    そば 
二六にうめん 
家づと (家苞・家裹)家へ持ち帰るみやげ。
西村重長(別称)[1] 仙花堂)[2] 百寿 (著作)石山の本地・浮瀬蜑濡衣(うかぶせあまのぬれぎぬ)・狼の聟入等
うんどん(饂飩)うどん。
二六そば 一杯の価が十二文のとする代価説と、蕎麦粉六、小麦粉二の配合説もある。 →二八そば(15丁参照)「風輪(鈴)蕎麦といふて、家台の廻りへ風輪を下げて歩く蕎麦、器もきれいにして、価一膳十二文」『明和誌』
伊丹酒 摂津伊丹地方で醸造する酒。江戸初期から最上酒とされた。伊丹諸白(もろはく)。生諸白(きもろはく)。
はこつけすし 箱漬け寿司か。筥鮨(箱鮨)。
にうめん にゅうめん(煮麺)(入麺)
 そうめんを味噌または醤油でさっと煮たもの。
*挿絵は扇子、団扇、提灯など手にして行き交う人々。酒屋、蕎麦屋、葭簀張りの蕎麦屋、提灯屋、屋台の鮨屋などが並ぶ両国橋界隈。右端は火の見櫓。


 他国に遣わすにはまことによい土産として、
 題して「絵本江戸土産」と名付けた。
 その通りの本である。
            玉芝藤人 題
            画工(西村)重長
            彫工   又市
  続江戸みやげ
     全部
     三冊  出来



         (4-1)
  御涼所

  御涼所
  ふし屋

  ゑびすや
  御涼所

  
あめ
  
  
御伽(羅油)
   いからし(五十嵐)

  
わキ千太夫
   竹本道太夫
   三味線文□

   
上るり(浄瑠璃)
  

  めいふつ

(4-2)
 吉野丸
  江戸まへ 
  大かばやき(蒲焼き)
  御すい物
画面では御伽」までしか字が見えないが、平賀源内が天竺浪人の名前で宝暦十三年(1763)に発表した「根南志具佐」(根無し草)の中に、両国橋のたもとには、鬢付け油の伽羅油で世に知られていた「五十嵐兵庫」店があったと記されている
*両国 東京都墨田区、両国橋の東西両畔の地名。隅田川が古くは武蔵・下総両国の国界であったための称。
*両国橋 隅田川に架かる橋で、1661年(寛文一)完成。1932年鋼橋を架設して現在に及ぶ。長さ162m。古来川開き花火の名所。

 両国橋界隈・江戸の歴史
「御伽」は「御伽羅油」の上
 二文字、「いからし」は「五
 十嵐兵庫
であろうというご
 指摘を、武玉川を歩むの
 Kenjiro Goto氏から頂いた。

 


(5-2)
  
あわゆき(淡雪)
   とうふ
    ひのや
 
   あわゆき
   花まんぢう(饅頭)

   舟やど
   
ちよきふね
   
   大こく丸 
  







あわゆき 泡雪豆腐の略。苦汁を加えないで固まらせた豆腐。質が軟らかく口に入れると泡雪のように溶けるとてこの名がある。安永頃、両国の明石屋・日野屋が繁栄を競った。
猪牙舟 江戸で造られた、細長くて屋根のない、先のとがった舟。
軽快で速力が早く、漁業・舟遊びまたは隅田川を上下した吉原通いの遊び船に用いられた。
山谷(さんや)船。ちょき。

左頁挿絵は屋根船。屋形船より小さく、一人か二人で漕ぐもの。
夏は簾、冬は障子で囲って、川遊びなどに用いた。日除け船。







(6-1)
両国橋納涼(どうれう)

九夏(きうか)三伏(さんふく)の暑さ(しのぎ)がたき日。夕暮より
友どち誘引(ゆういん)して。名にしあふ隅田川の下流
浅草川に渡したる。両国橋のもとに至れば。
東西の岸。茶店(さてん)のともし火。水に映
じて。白昼のごとく。打わたす橋の上にわ。
老若(らうにやく)男女(なんによ)うち(まじ)りて。袖をつらねて
行かふ風情。洛陽の四条河原の(すゞミ)

 (6-2)
  これには
(すぎ)じと覚べし。橋の下には
  屋形船の歌舞遊宴をなし。
(おどり)真似(まね)役者
  声音(こハね)浄瑠璃(じやうるり)世界とハ是なるべし。或は花火
  を上ケ。
流星(りうせい)の空に(とへ)はさながら。蛍火のごとく
  涼しく。やんややんやの
誉声(ほめごゑ)は。河波(かハなミ)に響きて
  おびたゞし。此橋ハ往昔(いんじ)
万治年中初めて。懸
  させたまひ。武蔵下総の
(さかい)なるよし。俗に
  したがひ給ひて。両国橋と
(なづけ)たまふとかや。
ゐんじ 往んじ 往時。往事。
万治 (1658.7.23~1661.4.25)



両国橋 隅田川に架かる橋で、1661年(寛文一)武蔵の国と下総の国との2つの国をまたぐ橋として完成。古来川開き花火の名所
九夏(きゅうか) 夏季90日の間の称。
三伏 (「伏」は火気を恐れて金気が伏蔵する意) 夏の極暑の期間。夏至後の第三の庚(かのえ)の日を初伏、第四の庚の日を中伏、立秋後の第一の庚の日を末伏という。九夏三伏 夏のうちで最も暑い時期。

浮世絵で見る江戸の橋 両国橋 

江戸の大川(隅田川)の橋


(7)
 1
ミめぐりの春色





三囲神社みめぐり‐じんじゃ)(三囲稲荷)近辺。東京都墨田区向島にある元村社。俳人其角が 「雨乞に夕立や田を見めぐりの神ならば」 の句を神前に奉って霊験があったと 伝え、祠後に其角堂があった。三囲稲荷。
三囲神社の概要

三囲神社 Wikipedia






(8-1) 
三囲(ミめぐり)春色

衣更着(きさらぎ)初午(はつうま)にもなれば。四方(よも)
景色(けいしよく)もいと長閑(のどか)にして。堤の草も蒼々(さうさう)として。
人の心をともないて。船にて稲荷参詣
の男女は。土手の上より見ゆる。
華ー表(とりゐ)
笠木を目当にして。
(つゝミ)の岸に乗着(のりつけて。参
詣群衆
(をひたゝし)し。(くが)より(あゆミ)をはこぶ(ともがら)は。
両国の岸より。
(つゝミ)つたひにつミ草の

 (8-2)
  すミれ。たんほゝ。
嫁菜(よめな)しうとめうち交り。
  もて
(けふ)じてゆくありさま。或は竹町の
  わたしを打わたり。すミ田川のほとりまで
   尋行(たづねゆく)もあり。角田河のわたし守ハはて。舟
  に乗れど。夕暮までのにぎハひ。稲荷の
  のぼり風に翻りて。飛花(ひくわ)天に至る
          かとあやしまれ侍る。
 
 
華ー表(とりゐ) 華表(かひょう)二本の柱の上に横木を渡したアーチ形の標柱。ここでは鳥居の意。
はつ(泊つ)船が港に着いてとまる。碇泊する。
 
如月・衣更着(きさらぎ) 陰暦二月の異称。きぬさらぎ。
初午 二月の初の午の日。京都の伏見稲荷神社の神が降りた日がこの日であったといい、全国で稲荷社を祭る。この日を蚕や牛馬の祭日とする風習もある。



(9-1)隅田河の青柳












隅田川 (古く墨田川・角田河とも書いた) 東京都市街地東部を流れて東京湾に注ぐ川。もと荒川の下流。広義には岩淵水門から、通常は墨田区鐘ヶ淵から河口までをいう。東岸の堤を隅田堤(墨堤)といい、古来桜の名所。大川。


(10-1) 隅田河の青柳
毎年三月十五日。
梅若丸の
忌日(きにち)とて。今にたへさぬ
大念仏。参詣の男女袖をつとひ。梅若塚の
青柳も。いと
蒼々(さうさう)として。さながら春のしるし。
2柳さくらをこきまぜて。都鳥も
水上(すいしやう)(うか)む風情ハ。
往昔(むかし)在五中将の。いざことゝハんといはれしハ。問ふ
人もなきさひしき様子。今ハ引かえ繁花にして。
河の面には屋かた。家根舟。
猪牙なんど。所せき
までこぎならべ。
(つゝミ)の茶屋酒屋など。あるひは
牛の御前より。堤つたへの参詣は。さながら
(あり)のあゆむがごとしとかや。

  (10-2) はしばの舟わたし      (橋場)
名にし負はばいざ事とはむみやこ鳥我が思ふ人はありやなしやと(古今集 巻九在原業平・伊勢物語九段)

猪牙 猪牙舟のこと。江戸で造られた、細長くて屋根のない、先のとがった舟。軽快で速力が早く、漁業・舟遊びまたは隅田川を上下した吉原通いの遊び船に用いられた。山谷(さんや)船。ちょき。

牛の御前 牛嶋神社は隅田川の東岸、もと水戸徳川下屋敷跡の隅田公園に隣接して鎮座してあった。昭和7年に現社地(向島新小梅町)に移転した。隅田川に沿う旧本所一帯の土地を昔「牛嶋」と呼び、その鎮守として牛嶋神社と称した。
1梅若丸 謡曲「隅田川」中の人物。吉田少将の子。人買に誘拐されて東国に下り、「尋ね来て問はは応えよ都鳥隅田川原の露消へぬと」と辞世を潰して貞元元年(976)病死。たまたま来あわせた高僧忠円阿闍梨が塚を築き、柳を植えて印とし葬った。村人はこの塚をいつしか梅若塚と言って供養した。翌年、梅若丸を尋ねてこの地にやってきた母は、塚の上に小さな堂を建て、妙亀尼と名を変え仏門に入り、梅若丸の後世を弔った。のちに浅茅ヶ原の池に身を投げ、子の後を追った。遺跡梅若塚(東京都墨田区堤通)に木母寺(もくぼじ)があり、旧暦三月一五日を梅若忌とする。 浄瑠璃・歌舞伎の隅田川物にも登場。
見渡せは 柳桜を こきませて 都そ春の 錦なりける
       (古今集 巻一 56 素性法師)
在五中将 在原業平の異称。平安初期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一。阿保親王の第五子。世に在五中将・在中将という。「伊勢物語」の主人公と混同され、伝説化して、容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手、色好みの典型的美男とされ、能楽や歌舞伎・浄瑠璃にも取材された。(825~880)

牛島神社(牛御前社)  


(11-1)
 1金龍山


(11-2)

 2聖天のけい

 
 3ちやふね(茶舟)
  
 舟やど




聖天(山東京都台東区浅草の本龍院(浅草寺末寺)の内にある小丘。丘上に本龍院の本堂聖天宮があり、俗に聖天山という。
茶船 川遊びの船に飲食物を売りまわる小船。
 うろうろ船。
金龍山 浅草寺(せんそう‐じ)東京都台東区浅草にある聖観音宗(天台系の一派)の寺。山号は金竜山。本坊は伝法院。628年、川より示現した観音像をまつったのが始まりと伝え、円仁・頼朝らの再興を経て、近世は観音霊地の代表として信仰を集めた。浅草(あさくさ)観音  



(12-1) 三谷の土手

      
田町










さんや(山谷・三野・三谷)
 東京都台東区の旧町名。1657年(明暦3年)の大火に元
 吉原町の遊郭が類焼して、この地に仮営業して新しい
 遊郭ができたから、新吉原の称ともなった。



(13-1) 二本堤の春草
浅草の寺道より。
金龍山(きんりうさん)聖天(せうてん)を拝し。今戸橋。土手
2
道哲(どうてつ)(あん)。二本(つゝミ)に至る。此二本堤と云ハ。荒川(すぢ)
ためにとて。三谷より
箕輪(みのわ)につゞき。先はわかれて。二本
横たハる橋のごとし。
(よつ)て其名あり。此所別して。新
吉原の道なれば。土手の青柳もたほやかに。品よく遊
里の
駕籠(かご)のかけ声。栄屋舟宿の。をくり迎ひの。てう
ちんハ引もきらず。
3かちより通ふ遊客ハ。ふくめん頭巾
4
宗十郎頭巾。びろうど
()の裏付草履。ぬり下駄はきて当
世のはやりうた。
5
豊後(ぶんご)義太夫半太夫。おもひおもひに口
すさミての
往来(わいらい)ハ。(まこと)昼夜(ちうや)のわかちなし。

  (13-2) 新吉原7五十間道
      津の国や(編み笠茶屋)
新吉原 江戸の遊郭。1617年(元和3)市内各地に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町に集めたのに始まる明暦の大火に全焼し、千束日本堤下三谷(現在の台東区浅草北部)に移し、新吉原と称した。北里・北州・北郭などとも呼ばれた。
五十間道 二本堤から吉原入口、大門口)までの道で五十間の距離があった。
*つの国や 津の国 摂津の国 編笠屋か。

*高札 新吉原大門口にあり。正徳元年高札の一札に曰く、前々より制禁のごとく、江戸町々端々に至るまで遊女の類、隠し置くべからず。もし違犯の輩あらば、その所医者の者のほか、何者によらず乗物一切無用たるべし。近世風俗志(三)守貞謾稿 岩波文庫

*たそや行燈(たそがれ行燈)「誰哉行燈」江戸の吉原で各妓楼の前に立てた木製の屋外用行灯。終夜灯をかかげて往来を照らす。
二本堤 (日本堤)江戸吉原大門口へ行く途中、山の宿(しゆく)より三輪(みのわ)に至る山谷堀の土手。現在は、東京都台東区の地区名。

道哲の庵
江戸時代、浅草新鳥越一丁目(台東区浅草七丁目)日本堤上り口にあった浄土宗弘願山専称院西方寺の俗称。明暦(1655‐58)の頃、道哲という道心者が庵を結んだところからこの名があるという。吉原の遊女の投込寺として著名。関東大震災後、豊島区巣鴨に移った。土手の道哲ともいう。


かち(徒) 徒歩。

宗十郎頭巾 江戸時代に流行した一種の錏(しころ)頭巾。黒縮緬の袷製で、四方の筒を長くし、後の錏を30㎝ほどに仕立て、額・頬・顎を包み、左右の耳を被うために小鬢に細い錏をつけたもの。主として京坂の武士が用いた
義太夫 義太夫節の略。浄瑠璃の異名。上方浄瑠璃の一派。
廓図絵  江戸吉原に
 ついてのサイト


江戸の吉原(遊郭

ビバ!江戸


(14-1) 新吉原夜見せの景  
 

     おわりや(尾張屋)
     二町目



(14-2)

  まつや
  江戸町
*各遊女屋の屋根に天水桶が設置されている。
*たそや行燈(たそがれ行燈) 13丁注廓図絵   
吉原再見 




(15-1)吉原の佳春
昔ハ今のさかい町辺に有しを。明暦のころ此所うつるか。
その時より。新吉原と名付たり。行かふ遊客
衣紋坂(ゑもんさか)にて姿
をよそほひ。五十
間道(かんミち)の編笠青く。昔の風情を残し。大門
口の
挑灯(ちうちん)行燈(あんとう)。さながら白昼のごとくいかめしく。中の町の青
(すだれ)に。思ひ思ひの君待顔(きミまちかほ)風情(ふぜい)。或ハ三味(しやミ)小唄酒宴を催し。
春ハ桜花に酔をすゝめ。秋ハ
灯籠(とうろう)に眠を(さま)す。誠に若紫の
色香を。江戸町に残し。花の都の京町に。かへらん事を
(をしミ)
口舌(くぜつ)の客も床の内。つい(すミ)町に其(あと)ハ。馴染深夫(ふかま)のよい
中の町。客をのぼせる
揚屋町。五町まちのにぎハひは。四季
おりおりの壮観ハ。又と外にハ有まじくめでたくかしく。

 (15-2) あさ草なミ木町(並木町)
   おわりや(尾張屋)  生田諸白  うん(どんや) 二八そば切(り)
二八そば
 (1)蕎麦粉八、うどん粉二の割合で打った蕎麦。
 寛文(1661~1673)頃定式化したものという。
 (2)(天保頃、もり・かけ一杯の値が一六文だったことから) 安価な蕎麦。

諸泊(もろはく) 麹(こうじ)も米もよく精白したものを用いて醸(かも)した上等の酒を、江戸時代にこの名で呼んだ。
衣紋坂 江戸吉原の日本堤(にほんづつみ)から大門にかかる坂。郭(くるわ)が近く、遊客はこのあたりで衣紋をつくろうのでこの名があるという。
口舌(くぜつ) 嫉妬による男女の間の言い争い。痴話げんか。
揚屋町 江戸新吉原遊郭内の町名。
五丁町 江戸新吉原遊郭の、江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角(すみ)町の五町。
 転じて吉原の総称。

 
灯籠
灯篭(篭 籠の異体字)→籠




(16-1)

 浅草観音風景

  
かミなり門



(16-2)
 あさ草
 
  めいふつ淺草のり
  (名物浅草海苔)
  (太鼓・人形・張り子・)
  地はり(煙管)

  
  



浅草寺 東京都台東区浅草にある聖観音宗(天台系の一派)の寺。山号は金竜山。本坊は伝法院。628年、川より示現した観音像をまつったのが始まりと伝え、円仁・頼朝らの再興を経て、近世は観音霊地の代表として信仰を集めた。浅草(あさくさ)観音。 浅草寺 公式ページ 
地はり 地張煙管 じはりきせる
銅、鉄などの上に、錫を塗ったり、金鍍金(きんめっき)をしたりしたキセル。じばり。


(17-1) あさ草

  
弁天山

  


 (17-2) 
浅草

   そどう(祖堂)

   





(18-1) 浅草
  
さんじやどう
  くわんおんたう(観音堂

























  (18-2) 浅草晩景
  板東(はんどう)順礼の札所なればむかしより参詣多かり
  しに。御江戸御繁栄にしたがひ。参詣の
老若(らうにやく)
  (かミなり)門より。ぞろぞろとおしやい。名物の海苔屋
  見世をのりこし。あさくさ餅のかどに至り。   仁王門を過て。観音へ
(もふで)て。境内のかう
  しやく。
1
志道軒(しどうけん)にわらひを催し。随身門より
  寺道とほりを。遊里に過るもあり。門前の

  良茶。
菜飯(なめし)3ぎをんとうふの見世。酒家(さかや)
  茶屋軒をならべ。繁昌いはむかたなき霊地なり。

志道軒(1680?~1765) 江戸中期の講釈師。俗称、深井栄山。別号、一無堂。京都の人。浅草寺境内で軍談講釈を演じて江戸の一名物となった。著「元無草」など。
 風来山人に「風流志道軒伝」がある。

 
奈良茶 奈良茶飯の略。明暦(1655~1658)の頃、茶飯に豆腐汁・煮豆などを添えて出した一膳飯。
祗園豆腐 (京都八坂神社楼門前の二軒茶屋で売ったからいう) 田楽豆腐の一。薄く切って串に刺した豆腐を焼き、木の芽味噌を塗ってさらに焼いたもの。


(19-1)下谷三枚橋

(19-2) 
上野花見のてい







下谷三枚橋 現在の東京都台東区上野四丁目。下谷広小路。三橋 御成道(現中央通り)と不忍池通りとの交差する辺りに三橋という橋があった。三橋の名は、不忍池から流れ出る忍川に三つ並んで橋がかかっていたことに由来する。将軍は真ん中の橋を渡った。
  江戸時代切り絵図 台東区西部


(20-1) 上野



(20-2) 上野
 
  
大仏








(21-1) 上野


(21-2) 上の

    
山門






 



(22-1) 上の
      
中堂

(22-2) 上の






野 東京都台東区の一地区。上野公園はもと寛永寺の境内で桜の名所。




(23-1)上野春景
東叡の花ほころぶる頃。いざや花見に参
らんとて。幕などもたせ。山王の山より清水
中堂の脇にいたりて。所せきまで。思ひ
思ひに幕うたせて。あるひは琴三味おどり
小うた。実に繁花歌舞地と
いつゝべし。老若
男女貴賤都鄙袖をかざし。もすそをつらね。
色めく有さまハ。花のミやこにまさり
けり。げに 入逢の鐘に。花の散らん事を
おしミ。中堂の軒に時ならぬ雪をふらす
かとあやしまる。風流絶景の精舎なり。

(23-2)
  しミづいなり (清水稲荷)

いつゝべし 可謂。 謂つつべし。 
山里の春の夕暮れきてみれは
   入相の鐘に花そ散りける
   新古今集 巻二 能因法師


東叡(山)(東の比叡山の意) 東京上野の寛永寺の山号。寛永寺天台宗大本山、東叡山。徳川家康の意を受けた僧天海は、寛永元年(1624)寛永寺創建に着手する。上野が選ばれた理由は、江戸城鬼門に当たり、幕府の鎮護の地として京都の比叡山になぞらえ、またそのたもとの琵琶湖に不忍池を見立てたからだという。つまり天台宗本山延暦寺と対抗できる関東の天台宗本山寛永寺を造営し、幕府の天台宗制覇を実現する意図があった。寛永2年(1625)に本坊円頓院が完成し東叡山寛永寺と命名され、幕府祈祷寺として天台宗総支配の特権が与えられた。
 元禄のころより一般にも開放し、奈良吉野山から植林した桜の名所としても有名であった。
東叡山 寛永寺 公式ページ


 


 (24-1) 1しのはづの池(不忍池)

 (24-2) 
  せうてん
 
   弁天







 
不忍池 東京、上野公園の南西部にある池。1625(寛永2)寛永寺建立の際、池に弁財天を祀ってから有名になる。蓮の名所。 


(25-1) 不忍池蓮
洛陽(らくやう)の比叡のふもと。湖水に表して
中に島を築き。弁財天を安置す。池
中の
花葉(かよう)。水上に満て。水色見へず。
紅白の蓮華ハ。こまやかに地上に
(ひいて)て。
まことに
1上品(じやうほん)蓮台も。かくやとあやしまる。
もとハ舟にてかよひしよし。今は陸
地つゞけり。此ごろハうらに。あらたに橋を
わたして。
根づ 湯島の通路よし。参
詣男女。むかしに十倍せり。

(25-2)
芝切どおしまめぞうてい
   
萬小間物  二八そば





芝切通し 港区増上寺近く。
豆蔵 元禄頃、手品や曲芸と滑稽なおしゃべりで銭を乞うた大道芸人の名。のち同様の芸人一般をいった。江戸では代々浅草で、笊(ざる)・扇・徳利の曲芸をした。豆蔵亭。
上品蓮台 極楽浄土に往生する上品の階位のものが生れる七宝池中の七宝の大蓮華のうてな。
根津 東京都文京区東部の地区。根津権現があり、江戸時代にはその門前に娼家があって繁昌したが、明治中頃に洲崎へ移された。 
湯島 東京都文京区東端の地区。江戸時代から、孔子を祀った聖堂や湯島天神がある。 
 湯島天神 神社公式ページ
 根津神社




 (26-1)
 1芝あたこ
      
女さか


(26-2) 
芝あたこ










(挿絵)右頁は愛宕神社の緩やかな女坂。
    左頁は男坂
芝愛宕山 あたごやま。東京都港区芝公園北の丘陵。山上に愛宕神社がある。社前の男坂の石段は曲垣(まがき)平九郎の馬術で有名。
 
曲垣平九郎 江戸初期の伝説上の人物。馬術の達人。名は盛澄。高松藩士。1634年(寛永11)、江戸愛宕山の男坂の石段を馬で駆け上り、梅花を手折って、将軍家光らの賞賛を博したという。講談「寛永三馬術」などに脚色。社前の男坂の石段は曲垣
(まがき)平九郎の馬術で有名。

愛宕神社  





(27-1) 愛宕秋月
新樹(しんじゆ)森々(しんしん)として。和光(わくわう)のひかりかくやく
たり。毎月廿四日ハ縁日なれば。
早天(さうてん)より
参詣おびたゝしく。山上の風景いはむかた
なし。東は房総二州。眼下に歴然たり。
品川浦の
入津(にうつう)帰帆(きはん)の廻船は。磯によせ
くる
砂子(すなご)よりも多し。(かう)城下の町々の。
軒のいらかハ。
(うを)のうろこのつらなるがご
とし。西ハ富士箱根。目前に。時ならぬ
白雪をながめ。
(まこと)に絶景の山上なり。



  (27-2)行人坂
  みかわや(三河屋)  いせや   御料理 
御ならちや(奈良茶)
 
なめし(菜飯)
行人坂(ぎょうにんさか)目黒区下目黒。大円寺を
 拠点とする修行道の行者が行き来したため行人坂と
 言われ、大円寺は明和9年行人坂火事の発端地で幕
 末まで再建は許されなかった。境内に明和9年の大
 火の死者を弔うために五百羅漢像がある。

2御ならちや(奈良茶) 奈良茶飯の略。
 (1)(奈良の東大寺・興福寺などで始めたからいう) 煎じた茶に酒・大豆などをいれて塩味で炊いた飯。奈良茶。
 (2)明暦(1655~1658)の頃、茶飯に豆腐汁・煮豆などを添えて出した一膳飯。

3なめし(菜飯) 菜の類を炊き込んだ飯。


(28-1)目ぐろふどう



(28-2) 













目黒不動尊 瀧泉寺(りゅうせんじ)天台宗準別格本山、泰叡山。通称、目黒不動尊。開基、大同3年(808)慈覚大師円仁。江戸時代には上野寛永寺の末寺となり、さらに三代将軍家光の帰依を受けて大変栄えた。
 五色不動尊の一つ、不動霊場としては関東最古のものであり、関東三十六不動霊場の昭和新撰江戸三十三ヶ所結願寺としても有名。

目黒不動尊 神社公式ページ


 


(29-1) 目黒瀑布
往昔(むかし)
日本(やまと)武尊(たけるのみこと)東征の時橘姫の御わかれを悲ミ給ひ
て武蔵国荏原
(こほり)に。しばらく御滞留あり
その所に
(やしろ)を建て。荒人神(あらひとかミ)(まつ)るよし。後に
慈覚大師。不動の尊像を。
彫刻(てうこく)し給ひて。今
の目黒不動なるよし。
(まこと)霊験(れいげん)顕著(いちしる)く。正五
九月の参詣。ことに廿八日ハ縁日なれば。廿七日の夜中
昼夜(ちうや)のさかひなく。老若(らうにやく)男女(なんによ)おし合へし合。3とつ
この瀧にミそぎして。
4百度参りのさしの
(かず)、坂の(ほとり)
に山となし。門前には時ならぬ。賑に花を咲せ。川口屋
の飴見世は。
(のこん)の雪を(あらハ)し。(まこと)雪月花(せつげつくわ)(けう)ある地なり。
  (29-2)神田聖堂
   萬みそおろし   萬たひ(足袋)  おわりや (尾張屋) 上州屋 
  ( *たばこ屋。たばこの葉の型を看板として下げている。)
   

とっこの瀧 目黒不動尊の名物「独鈷の滝」
本堂へと登る石段下の左手に池があり二体の龍の口から水が吐き出されている。伝承では、開祖円仁が寺地を定めようとして独鈷を投げたところ、その落下した地から霊泉が涌き出し、今日まで枯れることはないという。
百度参り 社寺の境内で一定の距離を往復し100回拝むこと。お百度を踏むともいい、竹ぐし、小旗などの数取りを千本用意、一回ごとに1本納める。平安時代に始まり江戸時代に盛行。
神田聖堂 湯島聖堂。東京都文京区湯島にある孔子その他の聖賢をまつった祠堂。1690年(元禄三)将軍綱吉が忍ヶ岡の学問所弘文館にあった先聖殿を湯島に遷して建立昌平坂学問所、江戸学問所があった。

日本武尊・倭建命(やまとたける‐の‐みこと)古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、天皇の命を奉じて熊襲(くまそ)を征し、誅伐された川上梟帥(かわかみのたける)は死に臨み、その武勇を嘆賞し、日本武の号を献じた。のち東国の蝦夷(えみし)を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水(はしりみず)の海では妃弟橘媛(おとたちばなひめ)の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の賊徒を征伐の際、病を得、伊勢の能褒野(のぼの)で没したという。
慈覚大師 円仁(えんにん)の諡号(しごう)。天台宗山門派の祖。天台座主。下野(しもつけ)の人。最澄に師事。838年(承和五)入唐し天台教学・密教・五台山念仏等を修学、847年(承和一四)武宗の仏教弾圧の中を帰国。常行三昧堂を建立し、東密に対抗する台密の基盤を整備、比叡山興隆の基礎を確立した。諡号は慈覚大師。(794~864)
目黒不動尊 
神社公式ページ


湯島聖堂  昌平坂学問所
 
公式ページ


 (30-1)

 (30-2)
 1神田明神








神田明神 東京都千代田区外神田にある元府社。神田神社。730年(天平二)現千代田区大手町に大己貴命を祀ったのが始まりで、1309年(延慶二)に平将門の首塚を相殿に合祀して神田明神と名付けられたという。
 元和2年(1616)徳川2代将軍秀忠が現在地に遷座し社殿を築き、日枝神社と共に、江戸総鎮守(武州総社)として、また江戸城表鬼門の守護神として歴代将軍に崇敬されたといわれている
神田明神 神社公式ページ



(31-1)
輿(こし)天慶の将門(まさかど)(ほろ)びて。其霊(そのれい)たゝ
りをなせしを。
遊行上人芝崎村に
祭て。その霊をしづめ。
神田明神(かんだミやうじん)
いふとかや。
(こと)に九月十五日祭礼
なれば。参詣おびたゝし。その上神田
>
産土(うぶすな)ゆへに。貴賤群衆して。
社中寸地もなく。見世もの
土弓
家。茶店。菜飯ちや屋。祗園豆腐
饗えを。軒をならべ繁昌
    
いはむかたなし。

(31-2)
につほり 日くらしの里
   
地ぞうとう 
   
大神宮
産土 産土神(うぶすながみ)の略。生れた土地の守り神。近世以後、氏神・鎮守の神と同義になる。
土弓 楊弓(ようきゆう)に同じ。
いはむかたなし 言方無 たとえようがない。
日暮里 青運寺(俗称花見寺)から浄光寺(俗称雪見寺) 周辺の寺々は道灌山から続く地域で「此辺寺ノ庭中景至テ見事」と当時の江戸の地図にも記載されている程の景勝地。
日暮らしの里 道灌山周辺。道灌山は東京の日暮里(につぽり)から田端に続く台地。武蔵野台地の縁辺部。太田道灌の館址、または谷中(やなか)感応寺の開基である関長道閑の居所に由来する名という。周辺は日暮らしの里とよばれた眺望絶景の地。
平将門(たいら‐の‐まさかど)平安中期の武将。高望(たかもち)の孫。父は良持とも良将ともいう。相馬小二郎と称した。摂政藤原忠平に仕えて検非違使となることを求めて成らず、憤慨して関東に赴いた。のち、伯父国香を殺して頻りに近国を侵し、939年(天慶二)偽宮を下総猿島(さしま)に建て、文武百官を置き、新皇と自称し関東に威を振ったが、平貞盛・藤原秀郷のために討たれた。(~940) 
遊行上人(ゆぎょう‐しょうにん)時宗の総本山遊行寺の歴代住職の称。諸国を遊行することをならいとする。特に、開祖一遍または同宗遊行派の祖、他阿真教を指すこともある。



神田明神
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日暮しの里



(32-1) 
1あすか山 花見のてい










1飛鳥山 東京都北区王子にある小丘陵。現在、公園。江戸郊外の行楽地で桜と月・紅葉の名所。頂上から筑波山の絶景がみられた。
飛鳥山公園





(33-1) 飛鳥山花見
春の
1いとゆふ
長閑(のどか)なりし折しも上野の花もふる
めかし。いざや飛鳥の花見にまからんとて。
毛氈(もうせん)弁当
さゝえなど残もたせて。駒込よりあすか山にいたり。
四方を
(ながめ)やれバ。此方荒川の(ながれ)白布(しらぬの)を敷たるがご
とく。足立の
広地(くハうち)。目をかぎりにして。尾久村(をぐむら)の農
業。
民の
(かまど)(にぎ)ハしく。ことさら此花は
(たつと)き仰を下し給ひて。芳野(よしの)の花をうつし植
させ給ひしよし。
(まこと)花職(くわぎやう)尋常(よのつね)(こと)なり。色か
香バしくして。吉野の山の。春の景色も。これには過じと。
春の永き日をおしミて。ゆふくれに宿にいそぎぬ。


  (33-2)3 おせうぞくゑの木
諸白(もろ‐はく)麹(こうじ)も米もよく精白したものを用いて醸(かも)した上等の酒を、江戸時代にこの名で呼んだ。
*池田酒 大阪池田でつくる酒。江戸時代における最上の酒で、辛口で喜ばれ、伊丹酒と並称


いとゆふ(糸遊)陽炎(かげろう)。
○民の竈(かまど) 人民の暮しをいう。

おせうぞくゑの木 東京都北区王子にある装束稲荷の榎。この神社は江戸時代には関八州の稲荷神社の社で、毎年大晦日の晩に関東地方の狐が装束稲荷の榎の根元に集まり、高級女官の装束に改め、行列を調えて王子稲荷へ参拝したという。装束狐の伝説。
 二月の初午の日には、火難厄除けのお守りの火伏せの凧をもとめる参詣客で賑わう。
 広重の名所江戸百景に「王子装束榎 大晦日の狐火」という画がある。


   
池田諸白所 
    王子稲荷大社 
    王子氏子


(34-1) おうぢのいわや
    (王子)







装束稲荷神社

王子稲荷神社



(35-1) 王子初午
衣更着(きさらぎ)初午(はつうま)王子稲荷参詣とて。あすか山の
ほとりより。老若男女群集して。百度参りの
員取(かずとり)
のさし
社辺(やしろへん)(ミて)り。山に至りて狐穴(きつねあな)(はい)
赤飯をさゝげ奉り。かえりまふしに王子社へ
遙拝(ようはい)
しぬ。伝へ云此稲荷ハ
(くわん)八州のとうりやう也とて。
毎年極月晦日の夜。狐あつまりて。鳥居に至り
て。官位の
差別(しやべつ)あるよし。其ときの衣裳(ゐしやう)(えのき)
て。田の中に有り。此所に先あつまりて。社の方へ
(ゆく)よし。近年殊に霊験(れいげん)あらたかにて。毎月午の日
の参詣。
(ひき)もきらず。のぼりてうちん道路にミてり。

(35-2) 
あさぢが原 そうせん寺
          (浅茅が原 総泉寺)

遥拝(ようはい) はるかに遠い所からおがむこと。
浅茅原総泉寺 台東区橋場、当時は橋場町に総泉寺があり、
 近くに浅茅が原と鏡池があった。

のぼりてうちん 幟・挑燈

1王子稲荷 この神社は江戸時代には関八州の稲荷神社の総社で
毎年大晦日の晩に関東地方の狐が装束稲荷の榎の根元に集まり、
高級女官装束に改め、行列を調えて王子稲荷へ参拝したという。
 装束狐の伝説。二月の初午の日には、火難厄除けのお守りの
火伏せの凧をもとめる参詣客で賑わう。広重の名所江戸百景に
「王子装束榎 大晦日の狐火」という画がある。

装束稲荷神社

王子稲荷
Wikipedia



(36-1) 1かゞミが池












 (36-2)  浅茅原秋色
  2いとゞ秋は物さびしく。いづくも同じ。秋の
景色(けいしよく)
  3
正燈寺(せうとうじ)紅葉(もみぢ)を見物して。(それ)よりたどりて。二本
  (つゝミ)
三谷(さんや)にかゝり。今戸橋を渡りて。浅茅(あさぢ)ケ原
  に至て見れば。そのかミ
梅若の母。
妙亀(めうき)と云尼
  の結びし
(いほり)の跡。妙亀堂とて今にあり。(すなわち)(かゞミ)
  が池の
(そば)なり。昔の有りさま(あハれ)(もよい)し。秋の日の(ミじかき)
  を悲しミて。夕暮にやどりにかえりぬ。是ぞ
(まこと)に四
  時の興ある。江戸紫の所縁(ゆかり)の方へのよき土産にもなれ
  かしと。つたなき筆をたつるめでたさ。
    正月吉日 平安書林 寺町三条上ル町
                菊屋安兵衛 
7求板
梅若(丸)謡曲「隅田川」中の人物。吉田少将の子。人買に誘拐されて東国に下り、「尋ね来て問はは応えよ都鳥隅田川原の露と消へぬと」と辞世を潰して貞元元年(976)病死。たまたま来あわせた高僧忠円阿闍梨が塚を築き、柳を植えて印とし葬った。村人はこの塚をいつしか梅若塚と言って供養した。翌年梅若丸を尋ねてこの地にやってきた母は、塚の上に小さな堂を建て、妙亀尼と名を変え仏門に入り梅若丸の後世を弔った。のちに浅茅ヶ原の池に身を投げ、子の後を追った。

 遺跡梅若塚(東京都墨田区堤通)に木母寺
(もくぼじ)があり、旧暦三月一五日を梅若忌とする。浄瑠璃・歌舞伎の隅田川物にも登場。

四時(し‐じ)(1)春・夏・秋・冬、すなわち一年中の四つの時。四季。しいじ

求板本=求版本 すでに刊行した本の版木を版元から買い求めて再び印刷した本。
1浅茅原鏡池 東京都台東区橋場(江戸時代当時は橋場町総泉寺)近辺に浅茅が原があり、湿地帯で水鶏が多く棲む荒涼とした原野であった。浅茅が原そばに鏡池があった。鏡池には「釆女塚(うねめづか)」「玉姫伝説」「妙亀塚(みょうきづか)・梅若丸」の悲話が伝えられている。

○さびしさに 宿をたち出でて ながむれば
      いづくも同じ 秋の夕暮れ

      良暹(りょうぜん)法師
      後拾遺和歌集 巻四


正燈寺 東京都台東区竜泉にある臨済宗の寺。
 紅葉の名所で、見物を口実に近くの吉原に遊ぶ者が多かった。

正燈寺もみじ寺



リンク
国立国会図書館デジタルコレクション 絵本江戸土産

両国橋界隈・江戸の歴史

歴史を留める東京の風景 
浅草寺・両国橋・上野寛永寺・日暮里・行人坂・総泉寺等々

目黒不動尊

湯島聖堂

江戸名所図会と神社散策 
下町八社周辺

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